吉川 格郎 さん
生年月日 1927(昭和2)年5月6日生
当時の本籍地 徳島県
当時の本籍地 徳島県
民間人
所属 徳島師範学校
所属 徳島師範学校
1944(昭和19)年 勤労動員
当時徳島師範学校の生徒であった。
7or8月に直島(瀬戸内海)の三菱の銅製錬所に勤労動員される。
1945(昭和20)年4月 家が軍施設として接収される
○勤労動員から自宅に帰れるのは2〜3ヶ月ごとだったが、偶々帰宅していた折、同じ在所の30〜40軒が警察に集められ、軍人から「飛行場を建設するので○月○日までに立ち退くように」と言い渡された。期限まで5〜6日、1週間もなかったと思う。
○吉川さん一家は、家屋は軍施設として接収、1町5反の田畑は3反が滑走路予定地となり、残りは検問所内の耕作可能地域となった。
○勤労動員から自宅に帰れるのは2〜3ヶ月ごとだったが、偶々帰宅していた折、同じ在所の30〜40軒が警察に集められ、軍人から「飛行場を建設するので○月○日までに立ち退くように」と言い渡された。期限まで5〜6日、1週間もなかったと思う。
○吉川さん一家は、家屋は軍施設として接収、1町5反の田畑は3反が滑走路予定地となり、残りは検問所内の耕作可能地域となった。
○晴天の霹靂の出来事で呆然としたが、イヤだなんだと言える時代ではなく、とにかく慌ただしく準備をした。
○引っ越しの日は自分は学校に戻っていられなかったが、遠方からも沢山の人が車を持って手伝いに来てくれ、家財道具を運んでくれた。
○親戚の家に行く人が多かったが、我が家は大家族だったため木納屋(材木や薪を入れる納屋)を引き倒して河原(水が出れば浸かって仕舞うところだったが)に移設しここで暮らした。
○引っ越しの日は自分は学校に戻っていられなかったが、遠方からも沢山の人が車を持って手伝いに来てくれ、家財道具を運んでくれた。
○親戚の家に行く人が多かったが、我が家は大家族だったため木納屋(材木や薪を入れる納屋)を引き倒して河原(水が出れば浸かって仕舞うところだったが)に移設しここで暮らした。
○明け渡した家の母屋には兵隊が40人ほど寝起きをしていた。
○牛屋は下をさらえて弾薬庫となった。自宅には近づけなかったが、父が用水路に隠れて家を見に行き、手榴弾の箱が積み上げられているのを目撃した。
○牛屋は下をさらえて弾薬庫となった。自宅には近づけなかったが、父が用水路に隠れて家を見に行き、手榴弾の箱が積み上げられているのを目撃した。
○学校から戻っている土曜か日曜、滑走路の両脇に30mごとに人が並んでいるのを見た。赤とんぼ”が5〜6機離陸し飛行士がマフラーを振っていて、哀れだった。特攻機なんだなと感じた。
市場飛行場から特攻が出撃している事は、皆誰言うと無しに知っていた。
市場飛行場から特攻が出撃している事は、皆誰言うと無しに知っていた。
1945(昭和20)年8月15日 敗戦
1945(昭和20)年8月20日頃 飛行部隊はいなくなった
○飛行機は銘々が勝手に故郷に乗っていったようで飛行場には殆ど残らなかった。
1945(昭和20)年8月20日頃 飛行部隊はいなくなった
○飛行機は銘々が勝手に故郷に乗っていったようで飛行場には殆ど残らなかった。
●【自宅の爆破】
代わって後始末に青木部隊という部隊が入ってきた。
この部隊が、爆弾の処理が面倒だったため手榴弾庫ごと爆破処理し、延焼で母屋も含め家は全て焼けてしまった。
このように敗戦後焼かれた家は吉川さんの家ただ1軒である。
代わって後始末に青木部隊という部隊が入ってきた。
この部隊が、爆弾の処理が面倒だったため手榴弾庫ごと爆破処理し、延焼で母屋も含め家は全て焼けてしまった。
このように敗戦後焼かれた家は吉川さんの家ただ1軒である。
○食糧は食糧倉庫として接収された家にそのまま残っていた。
最初は遠慮がちだったが、次第に大胆に皆持って行くようになった。
○乾パンが千枚入った箱が2mぐらいまで倉庫一杯に積み上げられていた。
阿波中学の生徒達は通行証のチェックが厳しくなかったので、自転車の後ろに荷物を積み、カバン一杯に乾パンを詰め込んで、行きは学校へ、帰りは自宅へと持って行った。
私は検問所の外に持ち出すのは難しそうだったので、めかごの草の中に箱を入れ、唯一焼け残った元の自宅の風呂釜にそれを隠して、田畑に作業に行っては食べていた。
(※師範学校は空襲で焼けたため敗戦後5〜6ヶ月授業が無かった)
乾パンの山は2ヶ月ぐらいで全部無くなった。
○他にもかぼちゃの千切りを乾燥させたものや、通信機も何十台も置いてあった。このバッテリーを持ち出しお祖父さんと川で通電してウナギをとった。
最初は遠慮がちだったが、次第に大胆に皆持って行くようになった。
○乾パンが千枚入った箱が2mぐらいまで倉庫一杯に積み上げられていた。
阿波中学の生徒達は通行証のチェックが厳しくなかったので、自転車の後ろに荷物を積み、カバン一杯に乾パンを詰め込んで、行きは学校へ、帰りは自宅へと持って行った。
私は検問所の外に持ち出すのは難しそうだったので、めかごの草の中に箱を入れ、唯一焼け残った元の自宅の風呂釜にそれを隠して、田畑に作業に行っては食べていた。
(※師範学校は空襲で焼けたため敗戦後5〜6ヶ月授業が無かった)
乾パンの山は2ヶ月ぐらいで全部無くなった。
○他にもかぼちゃの千切りを乾燥させたものや、通信機も何十台も置いてあった。このバッテリーを持ち出しお祖父さんと川で通電してウナギをとった。
○2本の横穴式防空壕があり、中に高射砲の弾薬があった。
これを米軍が水深2mほどの貯水池に放り込んだが、田植えの時期には50センチほどに干上がってしまう。私が2〜3年後タニシ取りに行ってこれを発見した。
○250キロ爆弾の処理のため1軒に1人出すことになり、4人で一つの爆弾を担いだ。信管を抜いておらず生きた心地がしなかった。
○飛行機の修理工場がありここには飛行機が残っていた。米軍が工場ごと焼却したが、ジープがガソリンをホースで撒き、ライターで火を付けるだけ付けて居なくなって仕舞った。
山まで5〜6mしかないところで住民総出で火を消した。焼け跡にはエンジンが4〜5個、固まりになって転がっており、父と埋めた。
これを米軍が水深2mほどの貯水池に放り込んだが、田植えの時期には50センチほどに干上がってしまう。私が2〜3年後タニシ取りに行ってこれを発見した。
○250キロ爆弾の処理のため1軒に1人出すことになり、4人で一つの爆弾を担いだ。信管を抜いておらず生きた心地がしなかった。
○飛行機の修理工場がありここには飛行機が残っていた。米軍が工場ごと焼却したが、ジープがガソリンをホースで撒き、ライターで火を付けるだけ付けて居なくなって仕舞った。
山まで5〜6mしかないところで住民総出で火を消した。焼け跡にはエンジンが4〜5個、固まりになって転がっており、父と埋めた。
1946(昭和21)年1月 自宅の再建
焼けたのは1軒だけだったから材料や機材は全部軍がくれた。
焼けたのは1軒だけだったから材料や機材は全部軍がくれた。
〜1948(昭和23)年 田んぼの復元
道具がなかったため、滑走路に埋められた田を再建するのは大変で、掘り返し、20〜30センチ上土を足すことも必要だった。1反を戻すのに1冬ずつかかった。
道具がなかったため、滑走路に埋められた田を再建するのは大変で、掘り返し、20〜30センチ上土を足すことも必要だった。1反を戻すのに1冬ずつかかった。
〈直島での勤労奉仕に関する証言〉
○直島は精錬所から出る亜硫酸ガスがマスクをしても効果が無く、植物一切が枯れ果てて仕舞っていた。
○敗戦前自殺用にどすが配られ柄をつけて腹に入れていた。自殺の仕方の講習会まであった。
○仕事の行き帰り海辺で潮が引いた時に、イナ(ボラの子供)やケタエビ、打ち上げられたイカなどを取って食べた。
○週末に交代で帰宅した者がリュックに米やおちらし(炒った麦などの粉)を持ち帰った。皆で群がって食べるのであっという間に無くなった。
○帰宅出来ない週末は岡山・宇野に買い出しに出た。農家のお婆さんが、勤労動員に出ているうちの子もこんな風に苦労しているんだろうかと、キュウリを食べさせてくれたのが忘れられない。
○直島は精錬所から出る亜硫酸ガスがマスクをしても効果が無く、植物一切が枯れ果てて仕舞っていた。
○敗戦前自殺用にどすが配られ柄をつけて腹に入れていた。自殺の仕方の講習会まであった。
○仕事の行き帰り海辺で潮が引いた時に、イナ(ボラの子供)やケタエビ、打ち上げられたイカなどを取って食べた。
○週末に交代で帰宅した者がリュックに米やおちらし(炒った麦などの粉)を持ち帰った。皆で群がって食べるのであっという間に無くなった。
○帰宅出来ない週末は岡山・宇野に買い出しに出た。農家のお婆さんが、勤労動員に出ているうちの子もこんな風に苦労しているんだろうかと、キュウリを食べさせてくれたのが忘れられない。
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