金泉 潤子郎 さん
生年月日 1919(大正8)年4月30日生
当時の本籍地 新潟県
当時の本籍地 新潟県
陸軍
所属部隊 第2師団工兵第2連隊(勇1308)第3中隊
兵科 工兵
戦地 ジャワ、ガダルカナル、ビルマ
所属部隊 第2師団工兵第2連隊(勇1308)第3中隊
兵科 工兵
戦地 ジャワ、ガダルカナル、ビルマ
・高等小学校卒業後、叔父が経営する建築会社に勤める
・叔父は「勉強しろ」と自分のために早稲田の講義録を1年間くらいとって勉強させてくれた
・徴兵検査の結果は甲種合格で、検査官に「甲種合格!」と背中をパーンと叩かれた
●1940(昭和15)年4月10日 工兵第2連隊第3中隊に入営
・成績が良かったのか、幹部候補生も一緒の班で教育を受けた
・満州から古参兵が帰ってきて大いに絞られた
・強くビンタされると口が切れてしまう。一人が悪いことをすると全員ビンタを受ける
・工兵第2聯隊は新潟、福島、宮城の三県の出身者で構成。福島の人の言葉はよくわからなかった。「早く出ろ」というところを「早く出ちかれ」と言う
・工兵は橋を架けたり、船を操縦したり、トンネルを掘ったり、トーチカを作ったりする技術部隊。歩兵と違って1年ではなく2年間教育を受けた
・爆破訓練も行った。導火索は1秒間に1センチずつ燃える。だいたい10センチの長さに切って使った
・他にも電気爆破も行った。黄色薬は起爆力が強く、黒色薬は花火の原料でぶわーと破裂する
・ガスの訓練も行った。イペリットとルイサイト。ガスマスクを使った。ガス講堂で訓練を行った
・成績が良かったのか、幹部候補生も一緒の班で教育を受けた
・満州から古参兵が帰ってきて大いに絞られた
・強くビンタされると口が切れてしまう。一人が悪いことをすると全員ビンタを受ける
・工兵第2聯隊は新潟、福島、宮城の三県の出身者で構成。福島の人の言葉はよくわからなかった。「早く出ろ」というところを「早く出ちかれ」と言う
・工兵は橋を架けたり、船を操縦したり、トンネルを掘ったり、トーチカを作ったりする技術部隊。歩兵と違って1年ではなく2年間教育を受けた
・爆破訓練も行った。導火索は1秒間に1センチずつ燃える。だいたい10センチの長さに切って使った
・他にも電気爆破も行った。黄色薬は起爆力が強く、黒色薬は花火の原料でぶわーと破裂する
・ガスの訓練も行った。イペリットとルイサイト。ガスマスクを使った。ガス講堂で訓練を行った
○1940(昭和15)年10月10日 陸軍一等兵
○1941(昭和16)年4月10日 陸軍上等兵
○1941(昭和16)年 愛知県の犬山へ
・夏服を支給される。行き先は知らされなかったが、「いよいよ戦争が始まるんだな」と思った
○1941(昭和16)年4月10日 陸軍上等兵
○1941(昭和16)年 愛知県の犬山へ
・夏服を支給される。行き先は知らされなかったが、「いよいよ戦争が始まるんだな」と思った
○1941(昭和16)年 12月8日 太平洋戦争開戦
・「親や兄弟のために俺が犠牲にならなきゃ駄目かなあ。がんばろう。」という気持ち。誰のためでもなく自分の親兄弟のため。
・部下に母親が大学の先生をしているという上等兵がいて、「金泉さん、この戦争は大きい声では言えないけど、お袋が負けるって言ってましたよ」と話していた。
・「親や兄弟のために俺が犠牲にならなきゃ駄目かなあ。がんばろう。」という気持ち。誰のためでもなく自分の親兄弟のため。
・部下に母親が大学の先生をしているという上等兵がいて、「金泉さん、この戦争は大きい声では言えないけど、お袋が負けるって言ってましたよ」と話していた。
●1941(昭和16)年 宇品出発
・六千トンの貨物船「東福丸」に乗船。船内はカイコ棚になっていて、汗でズボンまでびしょびしょになった
・どこにいくのかは分からなかった。途中、台湾高雄とインドシナに寄港
●1942(昭和17)年3月1日 ジャワ沖海戦、バンタム湾上陸
・当時は3中隊2小隊
・上陸の前、胸がドキドキして動悸がする。足が震える。みんなそうだった。5、6分くらいすると落ちつく
・ピューン、ピューンと飛んでいる弾は遠く、ピュッと着た弾は近くを飛んでいる弾
・日本の優秀な輸送船が攻撃され、今村大将の乗船していた輸送船が撃沈される
・敵の魚雷艇が攻撃してきた。大発から海に降りて、銃を頭の上に抱えながら上陸。将校も抜刀して張り切っていたが、弾がヒューヒューきて爆発するので、手が震えて足がガタガタしていた
・敵はうまく逃げていて、それを追いかけた
・敵が大きな街路樹を爆破して倒して、通行できないようにしていた
・トラックに乗って追いかけたが、日本のトラックはオーバーヒートしてしい、現地のシボレーだとかフォードを徴発した。道には敵の乗り捨てて行った車が数珠つなぎになっていた
・ジャワの民衆は東から軍人が助けに来てくれるということを信じていて日本に期待しており、トラックで通ると果物を投げ入れてくれた。「こんなのが戦争かなあ」と思った
・敵は豪州兵。逃げ足が速く姿は一度も見なかった
・分隊員みんなで椰子の水を飲んだ
・当時は3中隊2小隊
・上陸の前、胸がドキドキして動悸がする。足が震える。みんなそうだった。5、6分くらいすると落ちつく
・ピューン、ピューンと飛んでいる弾は遠く、ピュッと着た弾は近くを飛んでいる弾
・日本の優秀な輸送船が攻撃され、今村大将の乗船していた輸送船が撃沈される
・敵の魚雷艇が攻撃してきた。大発から海に降りて、銃を頭の上に抱えながら上陸。将校も抜刀して張り切っていたが、弾がヒューヒューきて爆発するので、手が震えて足がガタガタしていた
・敵はうまく逃げていて、それを追いかけた
・敵が大きな街路樹を爆破して倒して、通行できないようにしていた
・トラックに乗って追いかけたが、日本のトラックはオーバーヒートしてしい、現地のシボレーだとかフォードを徴発した。道には敵の乗り捨てて行った車が数珠つなぎになっていた
・ジャワの民衆は東から軍人が助けに来てくれるということを信じていて日本に期待しており、トラックで通ると果物を投げ入れてくれた。「こんなのが戦争かなあ」と思った
・敵は豪州兵。逃げ足が速く姿は一度も見なかった
・分隊員みんなで椰子の水を飲んだ
・敵が降伏した後、中隊長を含む4名でバンドンに将校斥候に行った
・途中でパンパン大きな音がして敵の襲撃かと思ったら、ゴムの実がはじける音だった
・バンドンまでオランダ人の捕虜が道案内をしてくれ、その後さらに家に招いてごちそうしてくれた
・この時、捕虜が母親にキスしていた。キスをするのをはじめて見た
・途中でパンパン大きな音がして敵の襲撃かと思ったら、ゴムの実がはじける音だった
・バンドンまでオランダ人の捕虜が道案内をしてくれ、その後さらに家に招いてごちそうしてくれた
・この時、捕虜が母親にキスしていた。キスをするのをはじめて見た
・降伏後、下士官志願の兵隊の教育係の助手になって5か月ほど教育を行った
・ジャワの人々は好意的
・バンドンは暑いことは暑いが、高原地帯で涼しい。1日1回のスコール。ジャワは天国
・ジャワの人々は好意的
・バンドンは暑いことは暑いが、高原地帯で涼しい。1日1回のスコール。ジャワは天国
●1942(昭和17)年9月16日 タンジュンプリオク(Tanjung Priok)港出港
・ラバウル→ブ―ゲンビル。ブーゲンビルから軍艦「時雨」に乗船しガダルカナルへ
・どこへ行くかは知らされなかった
●1942(昭和17)年10月4日 ガダルカナル・カミンボ付近に敵前上陸
・夜明け前の払暁に上陸
・1週間分の食料と弾薬・器材を持っていた
・海からは駆潜艇が撃って来るし、空からは飛行機の攻撃、飛行場からは大砲が撃ってくる。いろんなことを考える余裕がなかった
・山道を使っていた
・食べ物がない
・攻撃の時は歩いていくのがやっとの状態だった
・ピアノ線みたいな線が張ってあって、それに触れると米軍の砲弾がぶわーっとそこに打ち込まれる。攻め込む前にみんなやられてしまう。あれはすごい
・負傷者は出るわでどうすることもできない
・大隊砲をかついで運んでいたが、戦場へは着かなかったと思う
・口で言い表せるものではない
・夜明け前の払暁に上陸
・1週間分の食料と弾薬・器材を持っていた
・海からは駆潜艇が撃って来るし、空からは飛行機の攻撃、飛行場からは大砲が撃ってくる。いろんなことを考える余裕がなかった
・山道を使っていた
・食べ物がない
・攻撃の時は歩いていくのがやっとの状態だった
・ピアノ線みたいな線が張ってあって、それに触れると米軍の砲弾がぶわーっとそこに打ち込まれる。攻め込む前にみんなやられてしまう。あれはすごい
・負傷者は出るわでどうすることもできない
・大隊砲をかついで運んでいたが、戦場へは着かなかったと思う
・口で言い表せるものではない
・前線から野戦病院に退がったことがあった。野戦病院といっても草を敷いて天幕を張り、そこに負傷者を置いただけ
・「金泉さん、金泉さん」と呼ぶ声がするので、「おかしいなあ」と思って見ると、一つ年下の同じ村出身の者がだった。その人は大腿部貫通銃創で歩けなくなっていた。少しの米と粉醤油を渡して、「これ食べて元気になって退がってこいよ。必ず連れに来るから。」と言って別れた
・兵隊は担架で後方に退げてくれない
・同級生がガダルカナルで2人死んだ
・「金泉さん、金泉さん」と呼ぶ声がするので、「おかしいなあ」と思って見ると、一つ年下の同じ村出身の者がだった。その人は大腿部貫通銃創で歩けなくなっていた。少しの米と粉醤油を渡して、「これ食べて元気になって退がってこいよ。必ず連れに来るから。」と言って別れた
・兵隊は担架で後方に退げてくれない
・同級生がガダルカナルで2人死んだ
・25センチの砲弾がすぐそばに落ちたことがあったが、不発弾で破裂せず助かった。米軍の砲弾は不発が多かった
・艦砲射撃など、生きた心地がしないので、精神異常になってしまう。ノイローゼになったり自殺する者が出た。特に学校出の人に多かった
・道端に生えている草、ヤシガニ、粉味噌、粉醤油を舐めて生きた。鰹節を食べていた。あんな固い物をよく食べたと思う
・アメリカは日本側を直接攻撃しにはまず来ない
・毎日空襲。昼間は椰子の上を飛行機がグルグル回っていて騒げない
・生き残るためにサボらずに毎日動いていたから生き残った。サボっていた人は死んでしまった。弾が飛んできて危険な食糧運搬なども、自分のためだと思ってやった。サボるのは一番良くないと思う
・マラリア、アメーバ赤痢、デング熱に罹ったが、体は丈夫だった
・日本の陣地と米軍の陣地は近い。河をはさんだだけ
・クリスマスの夜、米兵が白い天幕を張って音楽を流してダンスしていた。日本人は食うものに困っている。そこで河を渡って米軍の陣地まで行き、背嚢を持って帰った。命がけ。持って帰って見てみると、火薬が入っていたり、チョコレートが入っていたり、いろんな物が入っていた。それをみんなで分けて「我々のクリスマスだ」なんて言ったりした
○1942(昭和17)年10月10日 陸軍兵長
・艦砲射撃など、生きた心地がしないので、精神異常になってしまう。ノイローゼになったり自殺する者が出た。特に学校出の人に多かった
・道端に生えている草、ヤシガニ、粉味噌、粉醤油を舐めて生きた。鰹節を食べていた。あんな固い物をよく食べたと思う
・アメリカは日本側を直接攻撃しにはまず来ない
・毎日空襲。昼間は椰子の上を飛行機がグルグル回っていて騒げない
・生き残るためにサボらずに毎日動いていたから生き残った。サボっていた人は死んでしまった。弾が飛んできて危険な食糧運搬なども、自分のためだと思ってやった。サボるのは一番良くないと思う
・マラリア、アメーバ赤痢、デング熱に罹ったが、体は丈夫だった
・日本の陣地と米軍の陣地は近い。河をはさんだだけ
・クリスマスの夜、米兵が白い天幕を張って音楽を流してダンスしていた。日本人は食うものに困っている。そこで河を渡って米軍の陣地まで行き、背嚢を持って帰った。命がけ。持って帰って見てみると、火薬が入っていたり、チョコレートが入っていたり、いろんな物が入っていた。それをみんなで分けて「我々のクリスマスだ」なんて言ったりした
○1942(昭和17)年10月10日 陸軍兵長
●1943(昭和18)年 撤退命令が出た
・将校も頭がぼけてしまい、船が来ていないのに「船が来た!」なんて言って大変だった。その時将校に「兵隊がこんなに大勢いるのに、自分は指揮官のくせになんですか」と叱ったことがあった
・将校も頭がぼけてしまい、船が来ていないのに「船が来た!」なんて言って大変だった。その時将校に「兵隊がこんなに大勢いるのに、自分は指揮官のくせになんですか」と叱ったことがあった
●1943(昭和18)年2月4日 エスぺランス付近から軍艦浦風に乗艦
・2時間しか乗船の時間がなかった
・軍艦に辿り着くまでに力尽きてしまう人がたくさんいた
・船までたどり着くと網のはしごを登った
・その後猛スピードでブーゲンビルへ
・ブーゲンビル島に上陸。栄養失調の者はおかゆから徐々に食べて行った
・ラバウルに上陸。現地人と煙草とバナナを交換した
・「カナカボーイ」と呼ぶとジャングルから果物を持って現地人が出て来る
・2時間しか乗船の時間がなかった
・軍艦に辿り着くまでに力尽きてしまう人がたくさんいた
・船までたどり着くと網のはしごを登った
・その後猛スピードでブーゲンビルへ
・ブーゲンビル島に上陸。栄養失調の者はおかゆから徐々に食べて行った
・ラバウルに上陸。現地人と煙草とバナナを交換した
・「カナカボーイ」と呼ぶとジャングルから果物を持って現地人が出て来る
●1943(昭和18)年5月27日 ルソン島マニラ上陸
・マニラで再編成
・マニラで再編成
●1943(昭和18)年8月10日 仙台へ
・戦死者の遺骨を内地に持っていくことになった。遺骨といっても中身は砂
・監視はされなかったが、憲兵に「ガダルカナルで戦ったことは言うな」と言われた
・遺骨を内地の留守部隊に持っていき、そのままに補充兵の教育にあたった。自分も叩かれたので、人を叩くようなことはあまりしなかった
・3カ月ほどして、また輸送船でマニラへ
(その2に続く)
・戦死者の遺骨を内地に持っていくことになった。遺骨といっても中身は砂
・監視はされなかったが、憲兵に「ガダルカナルで戦ったことは言うな」と言われた
・遺骨を内地の留守部隊に持っていき、そのままに補充兵の教育にあたった。自分も叩かれたので、人を叩くようなことはあまりしなかった
・3カ月ほどして、また輸送船でマニラへ
(その2に続く)
取材日 2011年7月4日
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