2020年03月14日

石井 清司 さん

石井 清司さん

生年月日 1914(大正3)年5月生
当時の本籍地 新潟県

陸軍、陸軍軍属
所属部隊 近衛歩兵第三連隊、関東軍野戦貨物廠軍属
兵科 

・新潟県の農家の11人兄弟の三男に生まれる

●1934(昭和9)年 近衛歩兵第3連隊第5中隊第3班に現役入隊
・9月、徴兵検査の後に、東京の赤坂にあった近衛歩兵第3連隊(現TBS)に入隊
・なぜ小柄な自分が近衛兵に選ばれたのかは分からないが、とにかく大変に名誉なことで家族が花火を20発打ち上げてくれた。近衛兵ということで、村の村長の家や役場にまで身辺調査があったらしい。入隊後も思想などについていろいろと言われた
・代々木の練兵場に訓練にいったり、厳しい初年兵教育を受けたが、古参兵にもいい人はいて、板橋区に住んでいた内田さんは食べ物をくれたり特によくしてくれた。戦後何度かお礼に行った。
・最初は歩兵だったが、入営前に実家で馬を扱った経験があったので、重機(種類は忘れてしまった)班の馬の係りにされた

●1935(昭和10)年 部隊は満州に
・みんな実弾を撃った経験がないので、戸山ヶ原にあったカマボコ型建物の射撃場に実弾射撃をしに行った。当時東京に射撃場はここしかなく、山手線の方に向けて撃った
・戦地へ送られるためか、近衛兵でもなかなか入れない宮城にしょっちゅう入っていた
(※近衛歩兵第3連隊の連隊史の年表に、『昭和十年二月八日に、二中隊(税所大尉以下192名)が満州派遣独歩第11連隊第1中隊となり赴任す』とあり、この中にいたのではないかと思われる)

●1935(昭和10)年3月 熱河省平泉(ねっかしょう・へいせん)(現河北省平泉市)へ
・万里の長城の近くにいて、八路軍や匪賊・馬族の討伐に当たる。これは住民たちを保護するためであった
・”討伐“の時は特務の人があらかじめ密偵を出しておき、夕方に「村に何人」と連絡があり出動する。現地ははげ山が多い地形なので、重機で撃たれて倒れる敵が良く見えた。しばしば重機の銃身が真っ赤になるまで撃った。そういう時は砂をかけてさました。重機は重かったが、一番重い銃身本体を一人でかついで運ぶ兵隊もいた
・”討伐“以外にも宣撫工作の警備もした。宣撫工作というのは軍医や看護婦がついて、現地の住人に薬を渡したりするもの。数日前から村に行くことを連絡してあり、住人は日の丸を用意して歓迎した

●1936(昭和11)年2月26日 二・二六事件
・近歩三の一部が反乱軍に参加したが、そのことは知らなかった
○1937(昭和12)年冬 上等兵に進級

●1938(昭和13)年春 現地除隊、関東軍の軍属になることを決め、野戦貨物廠に勤めることに
・野戦貨物廠は奉天に本部があり、ハルピンなどあらゆるところに支廠をもっていた
・貨物廠は兵器以外の軍需物資(テーブルから衣服、慰問袋、食糧、馬の食べ物など)を全部扱うそうした軍需物資を集めて、各部隊に供給するのが仕事。最初、奉天の本部に6カ月勤務した

●1939(昭和14年)頃 佳木斯(ジャムス:現黒竜江省)の貨物廠に転勤
・日本人がいなく危険と思われていて、独身の者が転勤した。けれども、佳木斯には5万人くらい日本人がいて治安はよかった
・市長は中国人で、副市長が服部という日本人だった。服部さんは東京で知事だか何かをやっていた人で、佳木斯の開発に努力し、市電を通そうとしたらしい。住んでいるうちに医科大学も出来た(※満州国立佳木斯医科大学)。将校用の慰安所もあった
・弥栄とか千振の開拓団も佳木斯を通って行った。開拓団が船から降りたところを匪賊に襲撃される話を聞いた
・中国人の地主から買収した屋敷を本部に使っていた
・庶務課の係長になり、官舎に住んでいた
・給料は良く、内地の平均の倍ぐらいもらっていた。庶務課の課長は大学出の将校で、その下に事務員が15人、現場に15人いた
・松花江が流れていて、船を使って軍需物資を運んできて、それを陸揚げする。貨物廠ではこのために中国人を何百人も雇っていた。仕事のない中国人が「私は苦力(クーリー)です。」と、500人くらい集まってきた。中国人の扱いには注意するように言われていた
・日曜になると仲良くなった中国人の家に遊びに行き、タオルとか軍手を内緒で持っていてあげた。中国人との仲はよかった
・冬は寒く、駐屯していた大阪の師団などに送るための山と積まれた豚肉が凍って、それを地面に落とすと割れた

●1940(昭和15)年 結婚するために20日の休暇をもらって内地に帰る
・内地から両親が来たこともあった。内地からだと当時4日かかった。住んでいるうちに満鉄の鉄道が開通したが、それまではハルピンから外輪の汽船で登っていた

●1945(昭和20)年8月25日頃 終戦を知る
・残念で涙も出なかった。佳木斯には、ソ連軍に無線機が破壊されたりしたために終戦の知らせが届かなかったらしい。その後にハルピンから支廠長がやってきて、貨物廠の解隊命令を出し解散となる
・解隊後は生活に困ったので雑貨商などをして過ごした
・佳木斯には化粧品会社がたくさんあったので、それらの会社の品物を売るために、中国人の家を注文を聞いて回った。一人で回る時は拉致される可能性があった。現地の人は日本人に好意的で、そんなに必要があるとは思えないものでも買ってくれた。「ごくろうさま。今は 終戦で苦労しているけど、いずれ握手する日が来る」「東条が悪い」などと同情してくれた。中国人は大人から子供まで「国は国、人は人」と考えているようだった
・朝鮮北部出身者がソ連のGPU(ゲーペーウー、ГПУ:国家政治保安部)を連れて、隠れていた日本人の摘発をして回っていた。「戦勝国民だ」と言って回るので、中国人も良く思っていなかったようだ

●帰国
・満州にとどまっている間に2人の子供を栄養失調で亡くす。留まっているうちに日本人居留民団が主催する帰国事業が始まった。それに申し込んで汽車で葫蘆島(ころとう、現遼寧省葫芦島市)に向かう。子供が病気だったので病院船で帰ることに。病院船は米軍の船を改造したものだった。暑くて船の地下には入れなかった
・佐世保に着いた。だが港を前にして船にコレラ患者が出たので上陸を許されなかった。食糧は本当に悪く、イモの葉っぱしか出されなかった
・ある時小さい船がきて、白菜とか豚肉とかを船にもってきた。それが食事に出るのかと思ったら、全く出なかった。船員とかが食べていたらしい
・結局39日間上陸できなかった。この間に子供は亡くなった
・佐世保に上陸して、まず九州にいた先輩に連絡して食べ物を持ってきてもらい、そこから汽車に乗る

●1946(昭和21)年10月1日 故郷の新潟に着く

取材日 2010年10月21日
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posted by 戦場体験放映保存の会 at 15:44| 個人の体験談