2020年03月28日

鈴木陽司さん その1

鈴木陽司さん

生年月日 1918(大正7)年生
当時の本籍地 福島県

陸軍、民間人
所属 第2師団輜重兵第2連隊留守隊、第13師団輜重兵第13連隊本部
福島県西白河郡金山村役場兵事主任
兵科 輜重兵
戦地 中支(中国軍の冬季攻勢〜宜昌作戦)


・実家は呉服や雑貨を扱う商店
 
●1938(昭和13)年 徴兵検査
・俺徴兵検査受けたのは8月ごろのような気がした。
・検査場は白河の第一小学校の講堂だった。当日は朝早いので前の日に鉄道で白河に行って“よしなり屋”という宿屋に泊った。それで次の朝、兵事主任が引率して、村長と一緒に白河の第一小学校の校庭に各町村ごとに並ぶ。
・兵事主任は今年の徴兵検査を受ける人数が例えば40人なら間違いなく40人いるか確認しなきゃならない。人数だけ調べて引率して執行官のとこへ連れてく。
・それで身体検査をして、身長・体重を計ってOKになると今度は内臓を聴診器で調べる。肛門から軽い病気を持ってるとかなんとか全部調べる。それで一番最後に判定する。
・判定は執行官の前に立つと、名前が呼ばれるので、「はい」と返事をする。すると「お前は補充兵の、第一補充兵だ」。それで終わり。
・補充兵は国で有事の際は召集されて兵隊につく。あのころは兵役の義務があったから、甲種合格になった組は2年間軍隊生活を勤める。我々補充兵は有事の際は軍務につく。
・現役は満20歳、数えで21歳になった時から2年間だから23までは各兵隊の義務を果たす。我々補充兵は37歳まで補充兵としていなくちゃならない。
・それ以外の第一、二補充兵にならない体の悪い者が丙種合格。これは国民兵といわれた。これは40歳まで兵役の義務がある。だからいつ召集をうけてもいないといけない。
・身体に障害があるような人は丁種になる。これは兵役を免除として、外される。
・国民兵になっているまでの組は全部名簿に載っている。兵隊検査を受けて40人いたら40人のうち、甲種合格が例えば10人であれば10人、あと補充兵が20人であれば20人、というようなことは全部名簿に書かれている。本人にはわからない。やられているだけだから。
・今度は甲種合格になった組は、例えば1年間に連隊で300人の定員の時に、300人以上の合格があった場合、連隊区でくじを引く。それ時に外れた人は、くじのがれといって、現役に入らないでまあ待機の姿勢になる。
・入営する組は例えば8月に兵隊検査を受けたとしても、翌年1月に入るとすれば、8、9、10、11、12、1と6ヶ月ある。12月に入る組でも、1ヶ月早いけど5か月ある。入営する組はその間に今までしていた仕事を母親がやるとか、弟・妹がやるとか、父親がやるとか分担にさせる。
・そして入営の1ヶ月前ころになると神社仏閣をお参りしたり、千人針からなにから用意する。自分で言い残したいことあればそれも言う。
・我々補充兵になれば奉公袋が市販で売っているからそれを買う。中には髪の毛、爪、それをちゃんと遺髪として置いておく。遺言状があれば遺言状、それから荷造りする道具一式、それをいつでも奉公袋に入れておく。それで召集令状が来た時には、遺言があるなら遺言状を家族に置いていくわけだ。戦地に行って戦死すれば骨もなんにも来ないから、その時に残した爪、髪の毛は本人のものだからとそういうふうに準備しておくわけだ。現役兵は準備の期間は長いけど、我々召集兵になると長くて1週間だから、それだからその前に準備しておく。まあそういう時代だったんだ。
・それで兵隊検査を受けて第一補充だったから、こっちは悠長にかまえていた。まさか召集令状が来るとは思ってないで、のうのうとしてたら4月に来たわけだ。
 
●1939(昭和14)年4月28日 第2師団輜重兵第2連隊留守隊に応召
・4月の18日に仙台の第2師団の輜重兵第2連隊留守隊に入隊した。
・赤紙に「輓馬」と書いてあった。「はてなあ?」と思ったら馬を扱う兵隊だった。「いやこれは困ったなあ」と思った。馬は見たことあるけどもいじくったこともないし触ったこともない。「いやあこれ困ったなあ」と言ったってどうにもしょうがない。あとで、背が高くて痩せて目方が軽くて足が長い人は、乗馬にむくのでそういうところに向けていると聞いた。
・輜重という兵科は今で言う輸送。第一線で敵とバタバタやるのは歩兵。道を直したり橋を直したりするのは工兵。山砲とか野砲は後ろからバンバンバンバン撃つ。輜重は前線の部隊に荷物を輸送するわけだ。弾薬食糧。その任務。
・召集を受けた時は、福島県10人、宮城県10人、新潟県10人、第2師団はこの三つの県で編成してるから各県10人ずつで30人入った。
・兵隊に入ったら、「お前たちは本科」と言われて、軍刀を下げて、それで特務兵を指揮するんだというわけ。だから普通の兵隊と違うから、徹底的に絞られるわけだ。命令を受けるんじゃなくて命令するほうだから。なんでも覚えなくちゃならない。
・連隊に行ったら輓馬が2個中隊、それから自動車が2個中隊あった。
・第2師団はそのころ満州に本隊が行っていて、内地には留守隊がいた。その留守隊に召集を受けたわけ。
・一期検閲までの3カ月間、ありとあらゆる兵隊のこと全部、訓練を受けた。
・毎日午後になったら馬に乗る。馬には鞍はあるけど最初は足をかける鐙(あぶみ)はつけない。最初から鐙をつけると、鐙に足をはさんじゃって、落馬した時とれなくなって馬に引きずられて死ぬ場合があった。まあ200メートル引きずられたら死んでしまう。それがために一丁前になるまでは鐙をつけない。足をかけるところがないの。だから飛び乗り飛び降りだ。しかし飛び乗りにしたってそう簡単にはいかない。我々は馬を見たことがない。初めていじくる、初めて乗るわけだけれども、尻があがらない。ポンとこういかない。馬の足へこう足やったってツルッと滑るからだめだった。そうでやっと馬の背中に上がって鞍にあがったかと思うと、馬がピンッと尻をもちあげるから簡単にバタッと落っことされる。落馬。結構落馬しても怪我はしなかった。馬は利口だから落ちた上に乗ったりはしない。「ちくしょう」。今度は落馬しないように手綱をみっしりつかんで乗る。すると馬は今度は分かっているから、首をずーっとさげてくる。ビシッとする手綱をつかんだので、ドスンとまた落馬してしまう。いやあまあ毎日毎日そればかり。
・指導の古年兵は真ん中でムチをピンッピンッと振る。そうすると馬は叩かれると思うから気が張る。そこへもって初年兵で、訓練も受けてないから股がしまらない。だから半分ぐらい落っこちていく。それがだんだんだんだん数少なくなって、終いには1人か2人になるけども、それまでが大変。それでやっと一人前になって足を鐙のせてもいいようになった時には、すね毛が擦り切れてなくなっていた。そのくらいまでやる。
・鐙も靴のかかとまで乗せるとはまってしまってはずれないから、足の靴の3分の1を載せる。だから落馬するとパッとこう外れるわけだ。それがなかなかそのうまくいかない。やっぱりちょっとこう力入っちゃう。そうするとどやされる。
・そんな訓練を受けて一期検閲が終わってはじめてまあ一人前の兵隊になるけども、夜は内務班で初年兵が10人なら10人、そこに1等兵が2人くらい、あと上等兵が1人くらいついて、それで20人くらいで内務班となって寝起きして食事したりいろいろする。だから上等兵は1人くらいしかいない。あと1等兵が2人。その1等兵は何年すぎても上等兵になれないから、新兵をいじめるのがもう唯一の楽しみにしているらしい。
・ベッドの奥の棚に私物だの官物のシャツだのをきれいに並べとかなくちゃならない。その下には自分で履く長靴などをちゃんと置くわけだ。それでぴゃーっと四角にシャツでもなんでも揃えておかないと、演習に行ったり留守にした時に地震があったといって一等兵にそれだけはずされる。だから他の棚は綺麗になっているけど、自分のとこだけは落っこちている。シャツでもなんでも綺麗にしておかないで、下まではよかったけど上のほうがちょこっとずれたりするともう崩されてしまう。
・食事当番がある。初年兵が2人なら2人、3人なら3人飯を取りにいく。飯だの汁だのおかずだの。食事が終るとその食缶をこんどはきれ〜に洗って返すわけだ。その時ご飯粒が1つぐらい食缶に残っていると、炊事軍曹あたり炊事当番の上等兵あたりからしこたま文句言われてほっぺた2つ3つぶん殴られた。食器を洗うのだって1人2人分じゃないんだから、なかなかうまくいかない。水だって豊富に出てるわけじゃないから。
・入浴時間になれば、「風呂にはいれ」と上等兵が言うわけだ。風呂に行ったって初年兵は、とにかく古年兵ばっかりだから敬礼ばっかりだ。だからうっかり入っていられないんだ。兵長が入っていたりして。だからおそらく原隊には4か月近くいたんだけども、風呂に入ったってのは3回くらいか。あとは入ったつもりでお湯をかぶってそれで逃げて来るわけだ。それで入って来ましたとこう言うほかない。とにかく水を被ってそれで帰ってくる。古年兵になれば風呂でもなんでもゆっくり入るし、初年兵が背中を流してくれたりするけども、入営したばかりはそうはいかない。
・そんなこんなでやっと一人前になって、それで旅団の演習があるために、仙台から40キロぐらい離れた王城寺原の演習場に行って旅団の演習に参加した。それは戦地の実戦の模擬演習みたいなもので、それが終わると夜行軍で仙台まで来た。眠くなると軍歌を唄わせられて。日中朝から晩まで吹っ飛んで歩いて今度は夜。軍隊の移動は夜だから。途中で居眠り。足は動くんだけども頭だけは眠ってんだな。そうすると軍歌を唄わせられて、それで目が覚めて、それで朝がた仙台について午前中は休養になった。それでベットにはいったりして休んでいたら午後は医務室へ集合という。
・医務室へ行ったら上着を脱げという。上着もシャツも全部脱げって。それで半分まあ裸になってずーっと並ぶ。そうすると衛生兵が来て、ヨーチンを両脇腹にちゃっちゃっちゃ塗ってくんだ。そうすっとその後ろ軍医が来て、チフスならチフスの予防注射をブツッブツッ、ちょっちょっやっちまうわけだ。コレラの注射とか。とにかく2日にわたって注射を受けた。

●第13師団輜重兵第13連隊に編入、中国へ
・これはいよいよ戦地か、内地に残留になるか、それは分かんない。いやまあとにかく近いうちに行くようになんじゃねえかなあと思っているうちに、夜中の12時ころ、非常召集ってラッパが鳴った。そうすると全員もう表へ出るわけだ。非常召集だから。とにかく軍服を着て長靴を履いて軍刀をさげて表へ出る。それで整列したら、各人の前に新しい軍服、軍刀も新しいものがあって、それで全部着替えろと言われる。それで「これからお前たちは戦地に行くんだ」と、どこの戦地行くんだかわかんねえんだ。とにかく戦地へ行くんだ、そういう命令なの。
・夜中の12時ごろ衛門を出て、仙台の長町、長町駅には軍用列車が待ってるわけだ。それで2師団から13師団に編入になる兵隊が、輜重だの歩兵だの何人かずつ行くわけだ。それでその列車に全部入るわけだ。それで師団長が一番はじのホームにいて見送ってくれた。
・その列車が東北本線を下るんだか常磐線を下るんだかはわからない。東北本線に来れば駅員に頼んで電報打つわけだ。白河に何時頃つくから家族は面会に来る。常磐線の場合は電報打ったって白河を通んないからだめだ。それで分岐点までどっちに行くか分かんねえんだわな。そうしたら常磐線に入った。それで面会は出来なかったんだ。浜の連中は大変だ。喜んで電報を打ったから、平の駅とかほうぼうの駅に家族が出て、それで赤飯や甘いものを差し入れいれたりして、とにかくこれから戦地行く組だから、死んで帰るんだか生きてくるんだか分からないから家族は真剣だ。こっちはそれを見てるだけだ。
・あのころは上野駅が終点だったが軍用列車は品川経由。だから上野もなにも止まらないで、品川から東海道線にはいっちまうわけだ。そのまままっすぐ大阪に連れて行かれて、それで大阪の民家に一晩泊まった。いやこの畳がどれほど懐かしいか分かんねえんだわなあ。今迄ベットで寝せられたから。頬ずりした、こういう青畳に。

・それで大阪の港で“あでん丸”(亜丁丸?)に乗船した。客船かなあと思ったらそうじゃないんだ、貨物船。客船ではそんなに人が乗れないから貨物船。それで貨物船の真ん中が空いているからそこに棚を吊るわけだ。ちょうど人が立つとやっと頭こうやって隠れるくらい。その棚がずーっとある。船の一番下に馬がいて、その中間に兵隊がいる。それで大阪の港を出発した。
・玄界灘を通って、まあどこに行くんだか、まあ支那に行くのはまちがいねえんだな、そのころは日支事変だから。北支にいくものやら南支にいくものやら中支にいくものやら。
・それで支那大陸に近くなってくると、海の色が変わってきた。真赤な色になる。ここは上海なので、揚子江、今の長江、それから流れたやつが2日くらい、海の水が真赤になっちまう。
・ウースンから今度は戦時勤務になる。だからうかうかしてられないんだ、どっから鉄砲の弾がふっ飛んでくんだか分かんないから。そこから戦時勤務になって我々は戦地っていうわけなの。
・上海のウースンから、こっちからいった1万何千トンくらいの船でそのまままっすぐずーっと上って南京へ上陸して、そしてこんどは船が小型になる。5、6千トンの船になる。それに乗り換えて、今度は漢口に上陸した。そこではじめて、13師団の輜重兵第13連隊の将校が初年兵を出迎えに来てるわけだ。こっちは補充兵だから、我々初年兵30人のほかにやっぱり20人かいたから、それを迎えに来てるわけ。そしてそこで各歩兵とか工兵とか野砲とか山砲とか全部わかれた。
・そのまま50人くらい乗る木造船何隻かで、漢水の先の師団司令部がある“おうじょう”に上陸して、それで師団にただいま補充になって参りましたって申告するわけだ。師団長は田中静壱中将。まあ師団長は顔出さないけども、参謀の偉い人が、「ああご苦労」っていうような、まあ一つの訓辞を受けて、それから各隊にみんなばらばらになった。
・それで行ったところは湖北省の“けいざん”(荊山?)というところで、“おうじょう”からだいたい車で一日半くらいかかった。
・“けいざん”はまあ古い都市だから高い城壁がまわっている。それで城門がある。以前蔣介石か宋美齢が来たっていうんで日本軍が空襲したところで、そのため城壁の一角が崩れていたり、城壁の中も半分くらい民家が倒れていた。その中のお寺に連隊本部があった。
そこに連れて行かれて、本部勤務になった。
・だいたい西白河郡一円くらいが13師団の輜重兵第13連隊の警備区域。13師団の守ってる区域はだいたい福島県の八割くらい。そういう地域を1個師団が警備するわけだから4個連隊ある歩兵は方々に散らばっている。輜重みたいに輸送する組はずいぶん後方にいる。同じ連隊の中隊でも各所に散らばっていて、連隊本部にまあ1個中隊ぐらいがいた。
・平時の場合、1個師はだいたい1万人。戦時編成の場合は2万人になる。なぜかというと戦死してもすぐ補充するわけにはいかないからで、例えば我々の連隊は自動車が2個中隊、輓馬が2個中隊だったが、戦地に行ったら輓馬が6個中隊、自動車隊は師団本部にいて連隊にはいなかった。だからいっさいがっさい馬なんだわな。それで6個中隊が各所にわかれていた。
・各中隊に配属になる前に、どんな教育を受けて来たなんてわけで、城壁の広いところにあった馬場へ連れていかれて乗馬訓練をやったわけだ。ところがどうしたわけだか2人くらい落馬したんだなあ、さあ怒られちゃって、「こんなことで戦地に役にたつか」と。いやあれから徹底的に、まあ内地にいるよりひどい。ちょっとした障害でもなんでも飛べるよう、川だって1間半くれえの川を飛び越えるぐらいの訓練を受けたから絶対に落っこちなくなった。どこでやったって上で居眠りしたって落馬しない。
・俺はとうとう本部で事務みたいなことをやらせられたからそのままいたけども、あとの仲間は各中隊に出て行ってしまった。歩兵の連隊と違うから、戦闘任務じゃないから後方だから輸送だから、鉄砲でばかばかばかばかやることはあんまりなかった。勤務しながら山の分哨に行ってみたり、まあそんな程度だった。

●1939(昭和14)年末〜1940(同15)年始め 中国軍の冬季攻勢
・漢水のむこう側は敵陣地だった。冬になると漢水の水が少し減る。それで20個師団くらいの敵が漢水を渡って13師団の警備地に入って来た。冬の期間の攻勢といって一大攻勢。日本軍を徹底的に後方へさげるというわけで来たからまあ大変なんだわなあ。
・若松の65連隊などは各中隊や小隊がほうぼうにちらばっていて、それをみんな包囲されちゃったので65連隊は大変だったんだなあ。後方にいたからそんな情報入って来て、まもなく四方の低い山で、夜になるとこっちの山から狼煙が上がり、こっちの山からまた上がる、狼煙の合図が始まった。だから敵はもう山あたりまで来ていた。いやこれは大変だなあと思ったんだ。とにかくまだ戦争をやったことがなく、戦地に行ってまだ半年か7カ月ぐらい過ぎたばっかりだから。
・そのうちに城内にいた連隊本部以外に、城外に駐屯していた中隊が襲撃を受けたという連絡が来た。それで本部要員が援軍に行けということで出されたわけだ。
・鉄兜なんて被せられて、今の鉄兜は軽くて丈夫だけど昔はほんとの鉄だから、頭がふらふらするくらいだった。
・それで行ったけども敵が見えるわけじゃないけども、いやとにかく向こうから来る弾もすごいんだわな、こっちが一発撃つとむこうから10発くらい飛んで来る。それはチェッコスロバキアの製の機関銃で、そういうものを敵は持っていた。それで姿は見えない。だからこっちも撃たなくちゃいけねえけども、当たるもんじゃない。まあせいぜい300か400メートルくらいの距離なら命中するかもしれないけども、1000メートルくらい離れているから分かるものじゃない。ただ撃たないことにはどうもしょうがないから撃った。
・そのうち「やられた」と声が聞えた。それは成田っていう同年兵で、俺より4、5間先のほういたか。たら衛生兵が来て、足を引っ張って後ろへ連れていってしまった。そしたらもう1人「やられた」。田辺って福島の出身。「田辺やられた」
・4時間くらい交戦したか、そのうちに敵が退いて行っちゃったから、やっとまあ安心したけどその間まあなんの考えもない。頭の中だって真っ白だ。
・それで2、3日過ぎたら、田辺がちゃっかりいた。「なんだおめえやられたんじゃねえか」と言ったら、鉄兜にバーンと弾を受けて穴が開いて、弾は入ったまんま角度を変えて中をぐるーっと周っておっこっちゃった。それで頭にミミズ腫れがずーっとこうなって包帯していた。バーンとやられて、それでまとものすごいあれだから気絶してばったり倒れちゃったの。「やられた!」って言ったけども後はわかんなかった。そういうわけで助かったんだ。「なあんだおめえ」なんて、いやあこういうこともある。「大丈夫だ、俺生きてる」
・そんな状況で、だからまあ歩兵は大変だと思うんだ。それで包囲された隊は1ヶ月くらい、もうどうにもしょうがなかったんだわな。
・その戦闘が終わって、とにかくこのままにしたらまたどんどんやられるから、今度は守備から離れて、それで重慶に近い宜昌の攻略が始まった。

●1940(同15)年5月 宜昌作戦(第一期作戦)
・それで第一次宜昌攻略はじまったんだけども、その時は誘導作戦といって、まっすぐ宜昌に行かないで、後方をずーっと第一次作戦といって、敵を誘導して来るわけだ。日本軍がむこうへ来たというと敵が何個師団か来る。それを殲滅してから宜昌に攻めるという、そういう作戦。それで1ヶ月くらい山とか平野をぐるぐるぐるぐる回った。
・そのころは本部にいて連隊と一緒に行動してたんだけども、作戦の中ごろになったら、師団と連隊の乗馬伝令になった。それで日中は2騎、夜は3騎で歩く。例えば連隊から「師団は東のほうに何キロ」とか言われても、道もなんにもあるわけじゃない。そこに師団がいるからそこへ行けっていうわけ。そして師団から帰ってくる時には、「連隊がなになに方面に3キロ先にいるからそこへ行け」、それだけだった。道だって途中に部落があったりして、どこに敵がいるか分からない。だから言われた通りまっすぐ行くほかない。しかし馬もなかなか利口だから、夜はそう簡単には進まなかった。特に1間先2間先に中国人が死んでいて、その臭いがプンとくると、我々はわからないけど馬は臭いがはやくわかるからピタッと止まってしまう。それで馬の鬣の下のところをなでたり叩いたりすると進んでいく。「心配ないぞ」って。

●1940(同15)年6月 宜昌作戦(第二期作戦)
・第一次作戦が終わっていったんまた戻って、そして今度はほんとに宜昌を目指して進むわけだ。集合地は“きゅうこうちん”という65連隊がいた場所。そこは漢水のわきだからそこに集合して行ったわけだ。
・そしたら工兵隊が先に行っていて、漢水の一番浅くて距離の短いところで、歩兵が後ろからボンボンボンボン敵の陣地に大砲を撃つわけだ。それで同時に工兵が船で対岸に渡るわけ。そうすると同時に、その船に鉄の船を積んであんだよな、折り畳みの船を。そしてそれをずーっと両方から渡して橋を作るわけだ。そうすると橋が出来る前に、歩兵が工兵の船と一緒に敵前に進んでいく。それでむこう岸に上陸して、それで上陸OKとなってむこうで狼煙をあげる。危ないから日中はやらない。
・工兵が作った橋は、ぽんこんぽんこんぽんこん揺れる。川の流れが急だから真っすぐじゃなくて、弓形にまわる。そこを我々が、あぶなくて馬乗るわけにはいかないから、馬を引いて渡ってむこうへ着いたわけだ。
・歩兵はどんどんどんどん進んで行く。戦闘やってるわけだ。すると負傷兵が戻ってくんだわな、負傷兵だの死人。戦死者には「歩兵何連隊何中隊なんの誰がし」と書かれた荷札がくっついていた。どんどんどんどんくる。負傷兵は衛生兵が連れて行った。
・それで宜昌攻略に参加した。歩兵が宜昌の街に入って、もう宜昌の街の一角を占領したという。そのころ師団にちょうどいた。師団には新聞記者が何人も来てたわあの頃、従軍新聞記者、従軍記者。その新聞記者の話しでは「宜昌まで2日で突入に出来る」っちゅうわけなんだ。結局2日ど
ころじゃねえ、5日もかかった。
・それで宜昌の街に師団と一緒に降りて行ったんだけど、塹壕が掘ってあって、その中に中国人の兵隊、支那の兵隊さんがそっくり死んでいた。鉄砲を抱えたままにして。大砲の爆風か、それで心臓がばたーっとやられたらしい。いやあまあ綺麗だよ、あの“チャンコロ”の遺体。その死体が何体もあって、はじめて宜昌の町入った。
・宜昌の町ではまだ戦闘をやっていて、そっちこっちで火事になっているやら、ポンポンやっているやら。宜昌には軍官学校があって、そこの生徒が一番最後まで抵抗したという。
・それでやっと占領して、2日くらい過ぎてからか、完全に占領しないでいったん宜昌を落として、それで物資だのを全部処分してまた後方にさがるわけだったんだ。それで13師団は今度まわれ右して後方へさがるわけだ。そうすると一番最後に歩兵の1個中隊か、工兵の1個中隊くらいが残って、道路とそれに架かっている橋は爆破して、敵がすぐに追いかけて来ても、1日か1日半くらい遅れるようにしてくるわけ。
・師団と一緒だったから早く後方へさがった。そして土門亜(どもんあ)というところまでさがってきた。そしたら漢口の11軍の司令部から軍用機が来た。それで13師団の師団本部の前をぐるぐる回って通信筒を落として行った。その通信筒は「宜昌を完全に攻略すべし、占領すべし」という命令なんだわな。
・さあいったん戻ったが今度はまわれ右。歩兵などは今度は先へどんどん進むわけだ。道路、橋は壊して来たからさあこんどは橋のところにいくともう渋滞がいっぱいになっていた。
・それで宜昌に戻ったわけだけども、もう半分くらいやっぱり中国の兵隊が来ていて、それで歩兵がばんばんばんばん戦闘やったんだわ。それで師団本部は市内に入れなくて、その郊外に少しいるうちに、平定したというので中へ入ったの。
・師団の本部は昔の日本の領事館、それが宜昌にあったから、そこに師団本部を置いたわけだ。それで揚子江の対岸に大きい三角の山が三つあった。大した大きい山じゃないけども、そこに敵の陣地があった。そうすると毎日毎日大砲の弾が落っこってくんだわなあ。それで師団本部のあの領事館の中の広場にいた兵隊が2人ばっかり死んでしまった。
・それで越後の高田の58連隊が宜昌突破作戦を命令された。この戦闘には別に直接関係してなかったから「どうだ戦闘あっか」と思って、揚子江に昼間出ていって見ていた。
・山の敵に向かって野砲が5門くらいいっぺんに撃ちかけるわけだ。ばんばんばんばん。そうすると工兵は鉄舟のエンジンをかけて、歩兵の1個中隊くらいを乗せて向こうへ進んでいく。それでむこうでも撃ってくるから、いやあ夜なんていうのは綺麗だこと、ぼんぼんぼんぼんもう花火どころじゃねえ。それでむこうへ行って、上陸したというわけで信号を上げた。それで今度は本隊が船で渡河して行ったわけだ

●13師団の病馬廠に
・それでやっと安定したと思ったら今度は師団の病馬廠に功績係として転勤を命じられた。それでいったん鴉雀嶺(あじゃくれい)の本部に1ヶ月くらいいたか、そのあと師団の廟馬廠に勤務になって、それで功績室の事務をやった。
・病馬廠は、山砲にしたって野砲にしたって工兵にしたって歩兵にしたって馬はいんだよな、品物つけたりする馬が。その馬が怪我したり、病気になったり、あるいは鞍傷をおこしたりすると、病馬廠に連れて来るわけだ。師団の1ヶ所の病馬廠に。
・馬一頭に1人がつくけども、その連隊において5頭くらい馬が怪我したすると、それを1組してい1人ぐらい兵隊をくっつけてくるわけだ。その兵隊の行動を俺が見て、点数つけて連隊にまた返してやるわけだ。そういう仕事なんだ。
・5頭とか10頭預かったけど馬がそう簡単に治るわけじゃないから、中には1ヶ月もいる兵隊もいる。それでまた馬が病気になったりした時にくっついてよこす兵隊だから、軍隊ではあんまり喜んでる兵隊ではないんだわな。まあとにかく一癖あるような兵隊とか、あるいはシャバの、今で言う暴力団みたいな、そんな兵隊がいるんだわな。そういう兵隊は原隊にいたって同じ同年兵によく思われてない。威張るとか、ずるをするとか。だからそういう兵隊をよこすから始末になんねえんだわな。だからその点数つけるんだ俺は。
・軍刀は日本刀と違って、サーベルみたいな形のもの。半分だけ研いで切れるけども、半分は研がない。斬るんじゃなくて突く。馬でやるから突くことが目的。軍刀はとうとう離さない。軍刀はもう部屋の中へ来たって軍刀は外さなかった。軍刀なんて役に立つものじゃない。鉄砲の弾のほうがちかいから。

・土門亜(どもんあ)と中隊のいた鴉雀嶺(あじゃくれい)の中間に“せんやびょう”という部落があった。第二次宜昌作戦が終わってまもなく、4中隊の輸送隊がそこへ行って、お昼が近いから小休止というわけで、馬から一応荷物をおろしたり、馬に水飲ましたりしているうちに、共産軍が山の裾にいたのに気付かないでやられちゃって、馬100頭に人間が40何人か死んでしまった。
・戦地に行けば飯盒を使うけど、飯盒だからほとんど飯。戦地の場合は自分一人で炊事しなくちゃならない。後ろから飯をたいてもらうわけにもいかないから、いつでも飯盒を焚いて食ってるわけだ。だからおかずもなんにもないときは塩ぶっかけて食う。
・普通みんな出て歩く時は、米6合を背負って歩く。それで乾パン一袋。あのころはだいたい兵隊は1日3合が標準だから2日間の米だけは持ってんだ。だから単独行動したって2日間だけはそれで繋げるわけだ。あぶないとなったら1日3合食わないで、2合くらいにしたり。それに乾パン。ちっちゃいビスケットみたいなの。これはもう火をおこして飯だの焚けない場合にかじるわけだ。それで醤油とか味噌はみんな粉なの。粉醤油とか、粉味噌。それをみんな携帯用に少し持っている。
・そのほかに飲み水。もう綺麗な水ばっかり飲めないからクレオソートを持って歩いている。瓶に入ったさらし粉。水筒にそこらで水を汲んできたらば、そこに2たらしくらい、そのさらし粉を入れれば消毒になる。水は煮沸すれば心配ないけども、火をおこしてお湯を沸かせない時はそういうふうにする。
・とにかく飯炊きでもおかずをつくる時でも1人になった場合を考えるからそういう訓練を受けた。
・正露丸も小さいもの、せいぜい20粒くらいはいったものをみんな体に持っていた。三角巾も負傷したりした場合のために持っている。
・特務兵は短剣と鉄砲背負ってるぐらい。
・歩兵は小銃の弾を前後につけて100発くらい持って歩いている。我々は前だけで50発くらいだった。
・鉄砲は背中背負う。歩兵は歩兵銃で長いけども、我々馬の場合は騎兵銃で短かった。我々が乗っていた馬は、競走馬に似ていて足も細かった。荷物を引く駄馬や輓馬の馬は足が太く、乗馬に向かなった。
・警備していることころへ敵が入ってくるとあれだから、時々討伐に出て行く。連隊本部いたとき、陣中日誌にも必要だから他の連隊に行って、討伐の時どんな行動をするか調べに行っていた。
・戦地に行く時に認識票をもらう。戦地に行った場合1人になったり戦死したりした場合、どこの兵隊だかわかんないでしょう。歩兵だか工兵だか、ごちゃごちゃになっちゃったから。その時にその認識番号でどこの誰だか分かるわけだ。だから戦地に行く時初めて貰う。それで俺らが行った時は真鍮で、これは錆びたりしない。だんだんあとから来る組は、鉄板に番号をつけてメッキするだけになっていた。認識票は長い間、肌身離さずつけていた。シャツの上でなく肌身直接つける。シャツだのを脱いだりした時にどっかにいってしまうと大変だから、ひもでぶら下げて肌身に離さないで持ってるわけだ。
・本部にいる組は主に事務。毎日毎日陣中日誌をつけるわけだ。各中隊から連隊本部に報告が集められてそれをまとめる。陣中日誌係とか功績係とかいろいろあるわけだ。だから事務屋は1人2人じゃなくて20人くらい連隊本部にいた。その仕事の合間に各警備地の巡視をやったり、市内を
巡視したり、そんなことをしているから、だから戦闘そのものよりそのほうばっかりだった。
・昭和15年の4月29日に第一回の論功行賞があった。その当時戦地にいたりした組は全部その論功にあずかったわけだ。それで勲章をくれたり、むこうに従軍していれば従軍記章をくれたりした。幸いにして昭和15年の4月29日に戦地にいたからあずかることができた。
・恩賜の煙草と恩賜のお酒をもらった。酒はむこうで盃に一杯くらい飲ませられる。月桂冠だった。
                                 (その2に続く)

取材日 2014年10月26日


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