2020年03月28日

山田富雄 さん

山田 富雄 さん

生年月日 1918(大正7)年12月19日生
当時の本籍地 京都府

陸軍
所属部隊 歩兵第9連隊、歩兵第60連隊(祭7368)第1大隊第4中隊第2小隊
兵科 歩兵/軽機関銃
戦地 中支、ビルマ

・小学校卒業後、繊維関係の会社に勤める
・徴兵検査は甲種合格

●1939(昭和14)年12月1日 歩兵第9連隊第3中隊に入営
●1939(昭和14)年12月22日 大阪港出発
●1939(昭和14)年12月29日 中支蕪湖に上陸、同日歩兵第60連隊第4中隊に転属
○1940(昭和15)年3月1日 歩兵一等兵
・第4中隊軽機班に配属。使用していたのは十一年式軽機関銃で一番重かった。九六式は軽い
・京都弁でしゃべってしまったためにビンタを取られたことがあった。言葉だけはどうしても治らないので困った
・蕪湖は連隊本部があり大きい町だった。宣撫も効いていて治安もよかった。日系の旅館もあり日本人が大勢いた

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【写】 昭和15年蕪湖にて/二等兵/22歳

・酒保係をやったことがあった。楽だったし准尉とも仲良くなれた
・銃剣術の大会で優勝したことに中隊長が喜んで、料理屋でごちそうしてくれた
・日活の慰問団も来た
・慰安所もたくさんあり、兵隊は良く行く。慰安婦はだいたい中国人が多かった。日本人もいたが将校のためだった

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【写】蕪湖の町、上は時計台

・作戦中は住民のいない家から食糧をとってきていた
・機関銃の弾が敵に当たっているのかは分からない
・せっかん作戦の時には中国人が逃げて行くのが見えた
・山の方にある分哨に派遣されることもあった
・歩哨に立ったことがあったが、早く一時間が過ぎないかと思うくらい恐かった。月の夜は故郷を思い出したりした
・命令で山に立って警備をしていた時に、隣にいた兵隊が流れ弾でやられてしまったことがあった
・中国で戦死した者はその日の晩に火葬した。2人ぐらい火葬した記憶がある

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【写】昭和15年4月17日 鉄鋼山警備自像

・捕虜は多く捕まえた。結構よく処刑していた。初年兵は度胸試しでつかせられる。今考えたら可哀想だった。
・ある准尉が捕虜の首をはねたのを見たことがあった
・討伐には2個小隊くらいで行く
・部落に宣撫に行った部隊が、ゲリラにやられることはあったが、中国兵に襲撃されることはあまりなかった。中国兵は、撃てば逃げて行く
・部隊の炊事当番に2人の捕虜を使っていた。一生懸命やってくれて、次第に年次の浅い兵隊に威張り始めておもしろかった
・せっかん作戦の頃に2人を故郷に返した
・ある部落の村長と仲良くなって、その子供と遊んだりした
・クーリーは無理やり連れていく
●1942(昭和17)年4月〜9月 せっかん作戦
○1943(昭和18)年5月16日 江蘇省ウースン着、同日より同地附近の警備
○1943(昭和18)年8月1日 兵長

●1943(昭和18)年8月17日 南方派遣のため上海港出発
・輸送船団には護衛がまだつけられていた
●1943(昭和18)年8月29日 サイゴン港上陸
・仏印からタイ、タイからビルマへ、徒歩と一部自転車をこいで行った
・軽機関銃は戦友と3人で交代で担いでいた
・ビルマやタイには寺が多い。寺には井戸もあって水浴をして怒られたこともあった

●1943(昭和18)年12月30日 ビルマ国マンダレー着
・ビルマ人は親日的。食糧をくれることもあった
・最初ビルマ人に釜を貸してくれと頼んだところ、警戒されて駄目だと言われた。それからだんだん仲良くなって、一緒に食事をしたり、釣りに行ったりするようになった
・1カ月くらい家に泊めてもらって、足で米をつくのを手伝ったりして、非常によかった

●1944(昭和19)年3月8日〜7月3日 インパール作戦
・最初チンドウィン河を渡る時は簡単に渡れた
・20日間の糧秣を持っていけと命令された。2食分の量を3食分にしていた
・接近して戦うことが多く手榴弾をよく使った。敵の手榴弾攻撃を受けて負傷し、今も破片が顔にいくつか入っている
・敵の陣地を占領するとミルクなどがたくさん手に入るが、あくる日になると反撃を受け、敵の砲弾がボンボン飛んでくる。塹壕が砲弾で削れて浅くなった
・ご飯は谷間に降りて煙が出ないように焚いていた
・日本の戦闘機は1機も飛ばない
・インド国民軍もいた。戦闘が終わって糧秣を探しに行った時にインド兵がいて、「味方かな」と思ったら敵で、撃たれてびっくりした。陣地から逃げられないように鎖で縛られているグルカ兵もいた
・軽いマラリアになり40度以上の熱が出た。戦友もかなりなっていた
・英軍部隊は黒人兵が先頭にいることが多く、白人兵は少なかった
・倒れた日本兵の体を、グルカ兵が銃剣で突いていくのを見た

●1944(昭和19)年5月15日〜5月27日 「ライマトルヒル」付近の戦闘に参加
・ライマトルヒルの戦いに参加
・占領すると糧秣や弾薬がたくさんあった。弾薬は銃が違ったので使えなかったが、煙草は皆で喜んで吸った
・占領したあくる日に英軍の攻撃があり、グルカ兵が攻撃に来た。英兵は黒人ばかりだった
・ライマトルヒルの戦いが一番ひどかった
・一度英軍の戦車が攻撃にやってきた。丸い対戦車地雷をもらって、戦車にくっつけようと伏せていた。「これで最期だな」と思っていたら、敵も怖いのか近くに来るとすぐに退がってしまった
・インパールの町を見た記憶はないが、「インパールが見えている」とよく言っていた

●1944(昭和19)年7月26日 転進のため印緬国境通過
・撤退路は「水くれ水くれ」とたくさんの兵隊が死んでいた
・昼は飛行機のために動けない
・食糧はほとんどなかった。バナナの木の幹の中の白い芯を食べた。山芋を拾ってきて食べたが、あくが強くてとても食べられた物ではなかった
・一番よかったのは象を殺して焼いて食べた時。ちょうど鯨の肉のように感じた。猿も食べた。水牛も殺して食べた
・足をやられたら駄目
・遠藤という兵隊が足をやられて担架で担いで後方に下げようとする時にグルカ兵の攻撃を受けた。仕方がないので担架を置いて手榴弾を渡して逃げた
・手榴弾で自殺をする兵隊が随分いた

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【写】故遠藤金之助・19.5.7/インド・ランゴール

・靴はボロボロ。水の中を歩くので靴ずれができた
・シラミが本当にひどかった。休憩中にいつもつぶしていた
・一度、兵隊4人で小隊長だった人を担架で担いでいた時、スエダンという部落に友軍がいるから行けという命令で行ってみたが、スエダンにはすでに敵が入っていた。仕方がないのでその将校に「迎えに来るから敵が来たらこれで」と手榴弾を渡して別れた
・それから4人で敵中をあちこち歩いていると、英軍のオートバイが置いてある場所に出た。その近くに背嚢も置いてあったので一つとって逃げた。その途中、一人が鉄条網か何かに引っかかり「ブオー」という音が鳴った
・なんとか隠れてやりすごし、とってきた背嚢を開けてみるとミルクや携帯燃料などが入っていたので、それでごはんを炊いて食べた。背嚢の中には敵の衣服も入っていて、それを着ていた
・その後4人のうち1人がクリークを渡る際に撃たれて戦死
・チンドウィン河を戦友と渡ろうとしたが、工兵隊が部隊の許可がないと渡してくれないので、1人が泳いで本隊まで連絡に行き、許可を貰って帰ってきて、それで渡ることが出来た
・作戦後、4中隊は30人くらいになってしまっていた。再編成で2中隊に
・作戦後タイへ

●1945(昭和20)年8月15日 終戦
・どうとも思わなかった。悔しいことは悔しいが、あれだけ兵隊が死んだ負け戦だからしょうがないと思っていた
・タイで捕虜生活
・捕虜ではなく投降兵ということだったので、階級がそのまま残っていた
・兵舎を作るなどの建築作業をしていた
・勤務以外は将棋の駒を作ったり、女形がいて芝居をやったり、麻雀をやったりして遊んでいた
・英軍の兵隊は殴ったりしない。日向の暑い所に正座させるくらい
・豚を毎日食べれた
・監視は主に白人。炊事場にグルカ兵がいた
・収容所にいた日本兵はほとんど祭の歩兵第60連隊
・部隊からは戦犯になる人はいなかった
・英軍の炊事場の当番を命じられたことがあった。炊事場に行くとグルカ兵がいて「日本は良い」と言う。何故良いのか聞くと「日本は独立国だから良い。我々は 植民地だから」と言う。炊事場からの帰り、グルカ兵は「みんなで食べてくれ」と、飯盒にいっぱいウドン粉を焼いたような物をくれた
・終戦後はすごくよかった

●1946(昭和21)年5月22日 内地帰還のため盤谷港出港
●1946(昭和21)年6月11日 浦賀港上陸
●1946(昭和21)年6月13日 復員
・浦賀着。DDTをかけられて、いろんな注射をされた
・あまり兵隊時代にビンタをとらなかったので、今現在自由にどこにでも行ける。かつての部下とも話が出来る

取材日 2011年5月24日
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posted by 戦場体験放映保存の会 at 15:28| 個人の体験談