2020年04月11日

寺本秀明 さん

寺本さん顔写真.png
寺本秀明 さん

生年月日 1919(大正8)年2月22日生
当時の本籍地 愛知県

陸軍
所属部隊 独立混成第13旅団砲兵隊第1中隊(中支派遣軍倭第7991部隊岩田隊)、船舶砲兵隊
兵科 砲兵
戦地 中支(安徽省慮州)、台湾(基隆)

・建具屋さんに小僧に行っていた。昔で言う見習。入った時は見習だったが、13歳から19歳までいたので、軍隊に入るころはもういっぱしの職人になっていた

●1940(昭和15)年1月12日 現役兵として独立混成第13旅団砲兵隊に入隊
・1週間名古屋の旅館にいた。旅館から野砲3連隊へ通い、いろんなことを教えてもらった
・1週間経ったらもうすぐに中国へ出発。それも夜で何の連絡も知らせもなかった。それでも家族がどうしてわかったか知らないが、名前を書いた提灯を持って並んでいた。そうすると旅館の人がちょっと気を利かして10分ぐらい休憩をさせてくれて、その間に提灯の名前のところ目がけて行って、最後の面会ができた
・そういうわけで出発して、大阪の四天王寺というお寺のちかくに泊って、大阪から出港した

●1940(昭和15)年1月17日 大阪港出帆 
・輸送船の中は何段か棚をこしらえて兵隊が寝られるようにしてあった
・1月の玄界灘は揺れて、みんな船酔いになった。漁師だったような人は船に慣れているからご飯が食べられるけど、他の人はご飯が食べられなかった
・トイレは甲板に作ってあったが、それだけでは追いつかなくて船の横に急造のトイレが作ってあった。下は海。そこで用を足す。始末した紙は下へ落ちないで上へ舞い上がった。そうやって中国へ着いた

1940(昭和15)年1月21日 揚子江口通過
●1940(昭和15)年1月24日 中支那安徽省裕渓【※字が違う?】に上陸、同日独立混成第13旅団砲兵隊第1中隊に到着
●1940(昭和15)年1月24日〜1943(昭和18)年7月10日 独立混成第13旅団砲兵隊第1中隊に在りて大東亜戦役支那方面勤務に従事す
・安徽省の慮州というところ。そこの城内に駐屯して、その城外へ中国の軍隊が来ると作戦があった
・当時、徴兵検査で甲種合格になると威張ったものだった。先で死ぬこともわからずに。そういう時代だった。軍隊でも、上官の命令は絶対、天皇陛下の命令ということになっていた。だから絶対に文句言えないんだ。カラスが白いだろう言われたら「はい」と言う。「いや黒いです」なんて言えない。そういうのが軍隊だった。明けてもけ暮れて演習で、夜になると、内務命令の練習で毎晩叩かれた
・軍隊に入る時に兄が経験していたので、「軍隊へ入ったら、殴られることは毎日だで、ちゃんと奥歯を噛みしめとらんと、味噌汁が吸えへんぞ、口の中切るから」と言われていた
・初年兵同士で対抗ビンタといって、初年兵同士を向かい合せて叩き合わせる。「お前が先叩け」、「お前叩け」と言えば、「こうやって叩くんだ!」と古兵が教えに来るので、それでしかたなく叩いていた
・軍靴とか兵器の手入れをして、靴の手入れでもよくやってないと、靴を首にかけて「各班周って来い」と言われる。「なになに一等兵は軍靴の手入れが悪くて、教えてもらいに参りました」って言ってよその班を回っていく。そういう罰則があった。そうすると古年兵が「たわけ!もっと早うええふうに磨け」と言った。ほんともう初年兵というのは親兄弟に見せられないところ
・各班の初年兵係が主に罰を与える。でも他の兵隊にも好きな人がいる。「お前のなんだその態度は」と言われて、態度が大きいとやられる。背の高い大きい人は目立つので、態度が悪くなくても殴られやすい。ちいさい人は殴られることは少ないけど、背の高い人は目立つので損だった
・眼鏡をかけていると、親切な人は「眼鏡をはずせ、奥歯を噛みしめろ」と言ってから叩く。いきなりやられると眼鏡が飛んで弦が切れてしまう。やられた人はヒモでつっていた。スペアのメガネを持っていた人はあんまりいなかった
・もう3年兵になると神様みたいなものだった。内務で兵舎の中にいる時は神様みたい
・そういうところで我慢してきたので、戦友というのはものすごく懐かしいもの。同級生よりも何よりも。何年か同じ飯を食って同じ生活をしていたから、だから何年たっても「おお!おめえか、おーい!」と言える。学校の友達なんかでは何年か会わないとそんなこと言えない時があるけれども、戦友というのはそういういい所がある。何日たっても、「おーい!こらー!」って。戦友会なんかに行くとみんな会えるでしょう、何年かぶりかに、楽しいわなあ。昔の戦友という歌、あれは名文句。あのとおり
・一緒に入ったのは愛知、岐阜、静岡出身の第3師団から初めて行った人たち。中国へ着いたら、古年兵から班長から幹部から中隊長から全員九州の熊本の6師団から来た人たちで、言葉が全然違った。九州では、よろしいことは「よかよか」言う。おもしろいのは、「お湯が湧いとるか」というと愛知県の方では「ちんちこちん」と言うが「ちんちこちんてなんだ!?」となった。お湯が沸くことを九州では「たぎる」という
・召集で入って来た人には東北の人もいた。「いこ、いこ」ということを東北弁では「いんべ、いんべ」と言っていた。山形や福島で召集されたおじさんの兵隊さんだった
・名古屋と岐阜県でもまた言葉が違って、建具の仕事で岐阜県の関に8年間いたが、関のほうでは、「よくいらっしゃいました」ということを「ようきてくんさった」と言った

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・使っていたのは山砲という10センチぐらいの砲身で、小さい大砲だった。そのかわり分解して馬の背中に積めるので、細い道でも山の道でも行くことができた。馬に積んで目的地へ着くと、また降ろしてがちゃがちゃっと組み立ててドーンと撃つ。山砲というのはそういうものだった
・馬がいたので馬の手入れもする。馬は兵器に扱いになっていた。当時、一銭五厘の召集令状で兵隊は集められたが、「お前たちは一銭五厘でいくらでも集まるけど、馬は一銭五厘で集まらなんで」と古年兵から言われていた。人間より馬のほうが大事だった
・中国には白と黒のカラスがほんとにいた。日本のカラスより小さいカラスで、カーカーと鳴かないで「ガオガオ」と鳴いてあひるみたいだった。馬には麦を食べさせていたので、消化されずに馬糞の中に残った麦をそのカラスが食べにくる。白黒のカラスがいたのでびっくりした

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何回ともなく作戦に行っていた。だけど私は割と少なかった。功績係の助手をやらされていて、事務系等のほうに行っていたので、他の人の半分くらいしか行っていない
・戦死した人に勲章をやらなければならないので、中隊長が何月のなんという戦闘で、どういうふうに亡くなったかということを原稿に書く。その中隊長が書いた原稿を功績係が清書して公文書にして旅団本部へ送る。そういう仕事をしていた
・経理と、庶務と、功績と三つぐらいあった
・砲兵隊は歩兵の援護が任務だった。歩兵が先に行って、「撃ってくれ」というと、後ろからドーンと撃つ。歩兵のすぐ後ろにいたので、直接敵に攻撃された時もあった
・山砲の弾には榴弾、火をつけて燃やす火弾、榴散弾という弾があった。榴散弾は一発破裂すると、280個くらいの小さい弾になってバーっと散る。敵がすぐそばまで来ると、榴散弾を距離をゼロにして待っていた。そのかわりむこうも危ないが、こっちも全滅してしまう。大砲にもそういう弾があった
・距離は弾の上に付いている信管を調整して合わせる。信管の数字に合わせると、その距離で弾が飛んでいって落ちるようになる。零距離の場合ボーンと撃つとすぐそこでバーンと爆発する
・砲隊鏡という眼鏡で状況を見て、測遠機で距離を測る。道具を持って前の方へ行って計測するのが観測。私はそういう役だった
・建物に弾が当たった時は、ボーンと煙が出て壊れるのが砲隊鏡で見えた。それで中隊長に報告する。私らの後ろには通信兵がいて、通信線を引っ張って歩いていた。その電話みたいなもので伝える。山砲隊の中には観測と通信がいて、大砲を扱うのは本科という
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砲兵隊の展開風景 左が観測をする寺本さん

・砲はなかなか命中しない。中隊長が電柱や塔などを目標にして、そこから何十度と言われると大砲の砲身、距離いくらと言われると信管を回して調節する。それから三番砲手が弾を込める。眼鏡で見て目標を決める二番砲手には一番優秀な人がなる。三番砲手が弾こめると、一番砲手がボーンと引き、そうするとドーンと撃つ
・弾が来た時は恐かった。「びゅん」と音がするとひゅっと伏せる。もう「びゅん」といった時は弾は後ろにいっているんだけど、でも「びゅん」と来ると伏せていた。ほんとに近くに弾がくると、「ブスッ、ブスッ」と土に刺さった。それは小銃の弾
・砲兵だったので銃は歩兵みたいに長いものは使っていなかった

・初年兵で玄界灘を渡っている時に、部隊が大蜀山(たいしょくざん)という山の戦闘で中国に負けてしまって、大砲を取られてしまった。
・大蜀山はちょっとした山で、野砲を上げて砲兵が5、6人と、歩兵の人で守っていた。それが襲撃されて負けちゃって、中隊長が戦死しちゃって、大砲をとられてしまった。その後に私は行った
・私が行った時は中隊長がいなかった。岩田さんという人は、九州の6連隊から中隊長代理という名前できていた
・しばらく経ってから、雪が降った後で、その山へ代わりの大砲を上げた。その時に私らも初年兵で手伝わされた。まず大砲を上げて、それから榴弾が4発入っている箱をかついでまた山へ上がる。初年兵ですごいきつかった。頂上が見えていたから低い山だけど、道がなかった。それを登っていかなければならない。高さは150か200ぐらい
・山へ上げた大砲を、誰もいないところへ1発ドーンと撃つと、近くに住んでいる農民の人が、「悪い者が来なくなった」とにわとりや卵を持ってお礼にくるということだった
・そういうのを分遣隊といっていた。分遣隊では演習もなにもない。ただそこでご飯を食べて守っているだけ。みんな分遣隊へ行くと肥えて帰って来た。勤務が終わることを下番と言い、「大蜀山下番だ」と言われて、肥えて帰ってくる

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紀元節 銃剣術の大会をサボって飲んでいる。この後将校に見つかり選抜上等兵から外された。


●1942(昭和17)年7月12日〜8月3日 李山廟付近鑑定作戦
・この時もすごかった。びゅんびゅんと来る中に私も行っていた。李山廟は山ではなくちょっとした部落。一番嫌だったのは、ここと“ござんびょう”と、“かとうしゅう”という所。鑑定作戦ってなっているけど、討伐と言っていた
・私の班2人戦死。他にも分隊長で九州出身の軍曹も戦死した。この時3人か4人亡くなった。同年兵でも、静岡市出身のラッパ手が、防楯という山砲の前についている弾よけを弾が貫いて当たって死んでしまった
・敵が撃って来きて遺体をそのまま持ってこれないので、後からそっととりに行って荼毘にした
・私がいた中ではこの時が一番犠牲が多かった
・味方が殺されると腹が立って来る。それで中国の兵隊が弾に当たって苦しんでいるのを見ても、可哀想だと思わない。憎たらしい。「この野郎」と思う。戦場というのはそういうところ。踏んづけたいくらい。「まだ生きとるでこいつ」言って、そのくらい

・戦闘はだいたい1週間くらい。長い時もある。13号作戦の時は2週間くらいかかった。もうくったくたになる。戦争というのはくたくたになって歩いてから始まる。いきなり戦争ではなく行軍しなければならない。雨が降っても合羽もないでしょう、ずぶ濡れになったり汗かいたりして、戦争が終わって帰って来た晩には風呂へ入って、ぜんざいが出た。ぜんざいが。それのうまいこと。本当だよ。とにかく甘いものがほしいのなあ軍隊は
・戦闘中は飯盒で炊いたり、自分自分でやった。炊事なんてのは来なかった。飯盒で炊く
・きれいな水はあんまりなかった。中国にはクリークという池があって、そこの水を汲んで使っていた。井戸なんてほんとになかった。私らが行った時、中隊の中に一つ井戸があった。それは昔の井戸で、つるべにロープをつけてドボーンと下に落として汲む。つるべを落としてしまうと拾えない。3年兵位になってから、馬に水のませるコンクリ製の水槽が出来て、井戸にポンプがついた。それまではつるべだった
・歩兵は1番前線に行くので、部落を占領した時農民の人が逃げ遅れたりしていると、女の人を犯したり掠奪したり、歩兵はそういうことをよくやっているみたいだった。だけど私らは砲兵で後ろのほうにいるから、部落に入っても中にはもう誰もいなかった
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戦友の記念写真
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・慮州には山砲隊が、バンプーには野砲隊がいて、旅団本部は慮州にあった
・慮州の南北に南門、北門と城門があった。そこへ歩兵の人達が城外から入って来て衛兵に立ち寄った。私たちの隊は城壁週番といって、各門を将校の人がずーっと馬で回るので、それに付いて行く事もあった。戦後、戦友が駐屯していた所へ行ったことがあるが、今は城門はなくなってしまったといっていた
・慮州の城壁は、敵が攻めて来て登ってくるといけないので、城壁の外の草とか木生えてるところを切って掃除していた

・漢字で書くと漢字が本元の中国にわかってしまうので、部隊の門の表札はひらがなで「なんとか隊」と書かれていた
・軍隊で中国の人を雇っていろんなことに使っていた。それを「苦力」と書いて「クリー」という。いろんなものを買わせたり運び出したりしていた。部隊では馬を飼っていたので、百姓の人が馬の糞を肥料にもらいにくる。そういう仲介を苦力がやる。そういう人は中隊の中で掃除をしたり風呂を沸かす手伝をしたりしていた
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・中国の一般の人とは付き合い出来なかった
・慮州の城内には商売をやっている日本人の人も多くいた。旅館をやっている人もいたし、問題になっている今の売春のあれも職業でやって来ていて、日本人の女の人も、朝鮮の女の人も、中国の女の人も、そういうとこで働いていた。それは今問題になっている強制で連れてこられたのか、自分で進んで来たのか、それは分からない。それでそういう人たちが病気したりすると、ちょっと会報に出る。「○○楼の何子、○○楼の○○、今週不合格」と。そういうこともあった
・軍隊には陣営具といって、遊びに外出する時に、男の人がはめるゴム、あれをくれる。それには「突撃一番」という名前が書いてあった
・そうしたところへは除隊するまで行かなかった。それは自慢できる
・除隊について前もっての連絡はなかった。あるかもしれんなあという噂はあった。除隊が近うなると上の兵隊が大人しくなる。昨日まで威張っていた人が除隊が近づくと、今までやられていた下の兵隊にかたき討ちをされることがあるので急にやさしくなる。やったことの覚えのある人は

○1943(昭和18)年5月29日 昭和18年軍令陸甲第三十六号に依り5月29日復帰下令
○1943(昭和18)年7月10日 復帰簡潔。同日野砲兵第三連隊補充隊に転属
○1943(昭和18)年年7月24日 転属のため安徽省鳳陽縣バンプー出発。同日南京着
○1943(昭和18)年年8月17日 南京出発
○1943(昭和18)年8月21日 山海関通過
○1943(昭和18)年8月22日 安東縣通過
○1943(昭和18)年8月26日 中部第8部隊に到着、同日第5中隊に仮配属
○1943(昭和18)年8月29日 除隊す

・召集が来るといけないので、同年兵3人と南京の総司令部に行って、軍属で使って貰うように試験を受けて、それに通ってから内地へ帰ってきた。通知を出すと渡航証明がくるばっかりにしてきたので、帰って名古屋の師団司令部にその渡航について相談にいったら、私が中国にいた時の知り合いの兵隊さんが在郷軍人係をしていて、「そんなとこ行っても召集くるぞ、軍属でも。それより内地のどっかにおらんかい」と言われた
・それで「熱田の中島飛行機の男子寄宿の舎監をやらんかい。それを今募集しとるで」と言われて、そこの舎監になった。愛知県の三河の山の方から中学生を出た養成工が入ってくる。それはみんな寄宿生活でそこの舎監やっていた。中島飛行機の本店は半田にあって、そこはもっと大きい飛行機を作ったらしいけど、熱田工場のほうは部品を作っていた
・そのうちに一銭五厘の召集状が来た。飛行機を作っている工場なので召集は来んかな思っていたがダメだった


●1944(昭和19)年秋 召集、台湾の基隆へ
・台湾についた時は、台湾沖海戦の終わった後だった。とにかく日本の飛行機もアメリカの飛行機も、基隆の街の中へ残骸が落ちていた
・名目は船舶砲兵という事だけで、どこへいくともなんと知らされていなかった。どっちみち南の方へ行く。だけど、船はあのころはみんなアメリカの潜水艦に沈められてしまっていた。南のほうでは弾も食糧もなくて飢えと病気が蔓延していたが、結局私は基隆にいて、そこから南へ行かなかった。行ったらもう今頃生きていられない
・船舶砲兵といってもなんにも仕事がなかった。ただいるだけ。岸壁の使役で荷物運び、これしかすることがなかった
・港でいろんな荷が上へあがると、それを担いで倉庫へ入れる使役を毎日やらされた。当時、砂糖が日本では貴重品だったが、基隆には倉庫の中に山と積んである。砂糖でも、ザラメでも、小豆でも。で悪い事だけどちょっと失敬してきて帰って来て、ぜんざいを作ったり、そういうことやっていた
・シラミと蚊に悩まされて、マラリアになって基隆の病院に入院した
・病院にも爆弾が落ちた。病院の屋根に赤十字のマークがやってあるけど、そこをばかばかっとやらないけど爆撃されて、防空壕の入口にいた人が1人亡くなった
・病院にいるうちは千人針にシラミがいっぱい湧いたので、机の上でプツンプツンとシラミをとった。卵がなかなか死なない。おっきい鍋で湯を沸かして煮ないと卵はとれなかった
・疥癬という痒くなる病気も流行って、元気な患者は風呂へ入りたいので自分たちで風呂をわかしてしていた。そうういうことやって、案外基隆では呑気に暮らしていた

●1945(昭和20)年8月15日 終戦
・天皇陛下の玉音放送が聞けなかった。病院長が全員集めて「日本は負けたんだ」と、そういう終戦だった
・「ほーん」と思った。最初は実感がわかなかった。基隆と台北と一日おきアメリカが空襲に来ていたが、最初はロッキードという胴体が2つある飛行機が偵察にきて、それからB29がドコンドコンとやってくる。最後は日本の高射砲も飛行機もないので、もう偵察もなにもなしにいきなりB29が来てどんどんやっていた。それで病院長から終戦と聞いたら、あくる日から空襲がなくなった。「あれ、飛行機がこねえほんとに負けたんかなあ」というような調子だった
・戦争が終わって「終わったなあ」、「帰れるぞ」、「いつの船で帰れるかなあ」となった。当時病院では、「こっくり様」が流行った。いろはの文字を書いて、それから数字を書いて、呪文を唱えて箸でつっつくと、きつねが乗り移って字の上を叩いて、「何時ごろ、何日ごろに、帰れそうだ」と。それで帰れるかどうか知らないが、そういうのが流行っていた
・基隆女学校の校舎が病院になっていた。高校生の絵を描いた図画用紙の裏を利用して、麻雀のあれをトランプみたいに紙に書いて、麻雀を教えてもらったことがある。紙でやって、「ツー」とか「ポン」とか
・一部屋に15人か20人いた。いくつか部屋がある。当時私は兵長だったので部屋の室長をしていた。点呼があると「異常ありません」と報告しないといけない。それから病人出たら言わんないといけない。病人ばっかりだけど、熱が出したりなんかすると
・20歳前の若い人が、徴用というのかそれで病気になって来た人もあるし、台湾生まれで雪をみたことない兵隊さんもいた。いういろんなことがあって病院は楽しかった
・部屋の中は面白かった。お正月になると雑煮が出て、蚊がいるから蚊帳の中でその雑煮食べたり。20歳前の若い衆がいて、その部屋中みんなで若い衆を押さえつけて、パンツまで脱がして、「いやだいやだ」いうのを押さえつけて。そういうこともあった
・大分県出身のわたなべみつさんという音楽と裁縫の先生が、空襲があって病院に氷がなくなった時に、氷を買ってきて私を冷やしてくれたことがあった。その先生が病気になって入院した時に、私が氷を頼んだりして恩返しをしたら、私が退院する時にその先生が、こんな小さい鯛だけど煮物を炊いて赤飯を炊いてお祝いに持って来てくれた。その人は大戦争が終わってから大分県の高校の先生になって、昔の話をしに家まで来てくれた

●1946(昭和21)年春ごろ 広島に到着、復員 
・日本にきたら寒かったので広島で毛布をもらった。時期はしっかり覚えていない
・名古屋駅に着いた時はなんか嫌だった。お前たちのせいで負けたんだという目で見られそうで、駅で並んでいても、背嚢背負って軍服着て帽子かぶって帰ってきたので、負けたんだから、なんかみんなの視線が、「お前たちの責任だぞ」って言われそうで、肩身が狭かった
・帰って来た晩に私マラリアの熱を出して、母親が「折角帰ってくれたのに」と心配した。でも治ったからよかった。そういうこともあった
・戦争はやっていかんて。うん、戦争はやったらいかんいうこと。戦争に行った人も無論、命は分からんわねえ。だけど、戦争に負けたりなんかすると、家族の女や子供はね、気の毒。日本でもねえ、どのくらいの人間が死んどるんやら。軍人でない人が。だから戦争はだめ。うん。うん。それはつくづく思うな

●最終階級:陸軍兵長
取材日 2014年10月29日

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posted by 戦場体験放映保存の会 at 17:26| 個人の体験談