2021年05月04日

大曲覚 さん

大曲覚 さん
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生年月日 1922(大正11)年6月1日生
当時の本籍地 

海軍
所属部隊 南方諸島海軍航空隊
兵科 整備兵

●1943(昭和18)年10月に海軍航空隊の飛行科整備で入った(海軍予備学生)
●1944(昭和19)年5月 少尉任官
●1944(昭和19)年8月15日 硫黄島着任
・硫黄島の地図を見ると判るけど、全体で20平方キロくらい。秋田県の田沢湖の大きさと同じくらい。ここに9万人か10万人がいたの。河がないの。水がないの。そこへ防空壕を掘れということで、温度が40-50度。15-20メートル掘れという命令がきてるの。
・硫黄島の戦闘は南方の経験を生かしてるの。航空隊の司令がいましてね、陸海軍の共同作戦するんだけど、意見が違うの。海軍は水際で戦争をする、敵を上げない作戦。陸軍はペリリューとか経てね、敵を全部上げちゃう。海軍は船を自由に使えるので、コンクリートとかたくさん運ぶの。陸軍に、作業員を出してくれとお願いするけど、別々になった。海軍は水際作戦。ペリリューの戦闘を知っていると陸軍が言うけど、こっちは知らない。
・栗林中将というのが海軍の要求を入れながら、トーチカをコンクリートで作って、3-4ヶ月で防空壕を作った。最初はダイナマイトがあったけど、せいぜい10分しか穴に入れない。交代でやる。食料もなくて、どんどん兵隊が消耗するの。強行したの。

●1945(昭和20)年2月19日 硫黄島に米軍上陸
・硫黄島の戦闘は移動することを避けて、前進もしないし、後退もしない。自分の防空壕で敵を迎え撃つの。米軍の艦砲射撃を耐えて。要塞砲の隊長は若いの。戦争を知らないで砲隊長になっているの。海軍としては、軍艦を撃っても、上陸してくるわけではないので、上陸用舟艇を撃てということなの。だけれども将校は若いから一発か二発撃っちゃった。どこ撃っても当たるの。敵が一杯だから。二発くらい撃ったら、他の砲隊長も釣られて撃ち出したの。米軍の反撃ですぐにやられてしまった。
・夜でも明るいの。照明弾があがるから。爆撃はやるし、艦砲射撃はあるし。これだけ打てば日本人は死んでいるだろうと思って米軍が上がってきたの。ここは成功したの。砂浜に上陸してきたの。僕らが作ったんだけど、250キロの爆弾があるんだけど、これを利用できないかと飛行場、道路の周辺に地雷として作った。あとロケット弾。2000メートルくらい飛ぶやつを作ったの。火の玉が飛んでいくみたいなの。ものすごい損害を与えられたの。暗号を打って、米軍は日本軍は新兵器を使っていると連絡していていたらしい。捕虜になった時に初めてその話を聞いたの。

●西中佐の戦車第26連隊と合流
・上がってくるまではほとんど日本軍は無傷です。前進、後退もせずに防空壕で反撃して死ねという作戦なの。3月8日に外に出て、サイパンでもテニアンでも同じだけど、指揮官が「お前たちの面倒は見れない、お前たちここで死ね」というわけにはいかないから、「すり鉢山に何時に攻撃しろっ」て命令なの。伝令が来て、何時に総攻撃、ここを通過しろみたいな命令なの。それ以上命令はないの。中国とかの戦争と違うんだよね。訓示があって、総攻撃があるみたいなイメージあるけど、それは違うの。皆ばらばらになっちゃうんだよ。そういのうがサイパン、テニアン、フィリピンもそうかと思うけど、そんな戦争だよ。一般に小説とかに書かれているのとはまた違うんだね。
・それで、3月8日に出て、中隊として200名くらいなんですけど、中隊長と一緒に進んでいて、たまたま迫撃砲を受けて、爆撃を、砲撃で地形が変わっていて、方向が分からないんだよね。100-150人だと照明弾があがると皆伏せる。それを繰り返すと、兵隊みんな離れ離れになってしまう。
・それでうろついていたら西戦車連隊、ロサンゼルスの馬術優勝した西さんです。そこに行って、道を聞こうとしたら、貴様達、うろうろして邪魔するなというの。こっちも総攻撃で来ているのに。総攻撃は硫黄島全体でやると思ったら、どうやら違うらしいの。米軍が30メートル先にいるんだから、邪魔するなと。西さんの副官が出てきて「300名くらいしかいない。協力してくれっ」て言うの。食料もあるし。西さんの配下になったの。肉薄攻撃をするっていうんで、毎晩3-4名出すの。帰って来るのもいないのもいるの。兵隊連れて、戦車の肉薄攻撃に参加したの。死人がたくさんいますから、5-6名集めて銃剣で裂いて、はらわたを出して、体に擦り付けるでんす。だから、もう爆撃、銃弾は飛んでくるしね、夜の8時から9時に出てね、明け方まで準備するんだ。死人と一緒に隠れているの。そのうち、自分が死んでいるか生きているか判らなくなる。
・たまたま米軍が3-4台来るの。一番先頭は火炎放射器の戦車で、皆焼いていくの。次は機関銃で、その後ろに歩兵が100名くらい来るの。西さんに言ったの「こんなんで切り込みしても意味ないよ」って言ったけれど、言うこと聞かないの。日本は指揮官が一番悪いよ。前線知らないんだから。
・西さんも戦車本部の壕がやられて、東海岸のほうに陸軍の部隊が移動したということらしい、その情報で3月16日くらいに、西さんは夜8時くらいに出たの。明け方に着いたけど、何にもないの。敵も追いかけてくるし、戦闘したの。栗林兵団に合併しようとなったの。200名くらいなんだけど、崖で通過できなくて、元の場所に戻ってきたの。夜また兵団に行こうとなった。150-60名しかいないの。
・海軍なので戦闘の経験がないの。途中で飛行場上がったところでやられたの。海岸に下りようとなった、米軍が追いかけてくるもんだから、鉄砲で応戦しながら移動したの。崖でわけわからないの。岩陰に隠れていたの。お昼近くに、ものすごい機関銃の音が鳴っているの。日本軍がいるんだなと思った。そのときが西さんの最後だと思うんだよね。戦後、西さんの奥さんの家に行ったの。実際は負傷かなんかして、自決したと思うんだよね。それが西さんの最後なんだよね。2日間かけて海岸線を移動して、戦車隊が帰ってきたの。指揮系統がないの。グループになって行動しているだけ。

●組織的な戦闘終了後
・その時には食料もなければ何にもない。とにかく、山がなくて、川がない。水がないのが一番問題。水がなくて死んじゃう。防空壕の中に毒ガス入れてくるの、それで投降を求めてくるの。防空壕追い出されて、他の防空壕に行くけど、入れないの。半口と一口の水をくれたら入れてやるっていうけど、一口、半口の見分けはどうするの。日本兵同士が殺し合うの。勇ましい戦闘なんかない。防空壕に入れずに殺しちゃうの。医療機関もないから、負傷したら終わりなの。誰も面倒を見ないの。うるさいから紐かなんかで殺しちゃうの。それが戦争の実態なの。勇ましく死んでないよ。
・防空壕に毒ガスが入ると、中では熱いから真っ裸なの。入り口に近いのは無意識的に出るの。スピーカーで捕虜になれって呼びかけてるの。水を入れるの。壕に海の水を入れるの。死人が浮くし、ゴミも浮く。ガソリン撒いて、火をつけられてやけどする。生きようと思ってもなかなか生きれなくて、死のうと思ってもなかなか死ねないの。島の戦闘はそんな感じだと思うよ。玉砕した島はそんなもんですよ。

・すり鉢山は噴火口なの。島全体が平なの。島の住民はいないの。疎開させているから。昭和19年5-6月には全員ね。住民がいないの。
・1.200キロくらいしか当時の飛行機は飛べないの。硫黄島がグアムとかの中間地点なの。米軍はねB-29は爆撃して帰れるの、戦闘機は飛べないの、だから硫黄島があると戦闘機が護衛できるの。米軍もね、硫黄島落ちてからすぐに飛行場作ったの、被弾をしたりして2,000機くらい不時着しているの、すると2万人くらのパイロットが助かっているの。それだけの価値があるの。
・敵が来るまで移動せずに、自分の陣地で戦闘をしろと。米軍としても狭いし、他の地形と違うからね。退却しようにも後ろに敵がいるし、日本軍も退却できない。サンドイッチなんだね。島が小さいから入り乱れてるから、爆弾落とすとか出来ないの。島が小さいと、上がってくると入り乱れてそうなるの。爆弾落とせば30メートルとか影響しますから。だからちょろちょろ戦闘しているの。
・点在しているグループ同士で連絡なんかしないし。全体の状況なんかわからない。一緒にいた人間が捕虜になっているから、大曲という中尉がいると、スピーカーで出て来いっていうの。
・戦争になって、総攻撃から捕虜になるまで3-4ヶ月は大変だった。米軍の残飯を食いに行ったり。戦争をすると、米軍というのは日本軍が撤退すると前進するの。食料、弾薬を持って前進はしないの。輸送部隊が持ってくるの。残っているんだね。あのあたりで激戦をしたから、食料集積地跡があると、長年の勘ですな。火山地帯なので、水が出ない。井戸を掘っても出ない。雨が降ると、どんな作業だろうが中止して水をためるの。ドラム缶とかにね。皆病気ですよ。硫黄島の傷病兵は2-3日すると死ぬから、栄養失調ですよ。生野菜もない。水がない。ドラム缶に水をためる。水槽もあるんだけど、米軍が分かっているからぶち壊すんだね。
・日本の国民というのは、どんな国民なの? 忠臣蔵は非常に美談だと。だけどああいう忠誠を誓うのが日本人なの。2-3日真剣に考えたの。自分の壕に帰ろうとして、4月の終りくらい。入り口が分からない、爆撃でやられているから、崩れちゃって。ここが入り口だなって分かる。なんで分かるか、死臭が漂うから。死人が一杯いるからだね。
・たまたま知っている人間にあったの。入ろうと思ったら、兵隊が入れないの。俺は大曲中尉だ、冗談じゃねえ、って言ったの。そしたら総攻撃で所属がなくなった、入れないっていうの。壕にいれば食料もあって、口減らしで追い出すの。切り込み隊にしてね。日本の兵隊同士で殺しあうの。人間が人間を殺すんだから。日本人同士だろうが、外国人だろうが人間に代わらないから。3月8日総攻撃以降、壕の連中は出てこないの。食料もあるからね。飛行場の飛行機を奪って、内地に帰るかみたいな話もしたの。
・兵隊どもが、一旦壕を出たら入れないの。そういう掟を作ったの。いかだを組んで、海を渡って内地に帰るっていうのもいたの。考えるとそれに取り付かれて、材料もないのにどうするんだ。次の日には捕虜になってるの。捕まったんだね。

●1945(昭和20)年5月末 米軍に投降
・水攻めにもあった。捕虜になったら殺されるって兵隊が言うんだ、でもここにいても死ぬんだからってね。水攻めに2-3回遭っているから分かるけど、捕虜になるかならないか。一日一日決まっているんだ。朝9時から夕方5時までガスも換えて、最後の水攻めするんだね。あるとき、順番を無視していきなり水攻めしてきたんだね。兵隊が水が入ってきたと言うんだね。これはおかしい。呼吸ができなくなる、窒息性のガスを入れているのか? 苦しくなって飛び出したの、雨で滝のように壕に水が入り込んだんだね。捕虜になって軍法会議になって、死んでしまうっていうんだけど、捕虜にならなくたって死ぬんだから捕虜になる判断をしたの。
・ハワイに行ったら「大曲っていう海軍の将校はいませんか」ってくるの。その兵隊が「本当は死にたかったのに、あなたが降伏したから死ねなかった」って言うの。
・島に蛇とかカエルはいないよ。火山だから。さそりとか蟹はいたかな。水がないから蚊がいないの。だからマラリヤがないの。その代わりハエはたくさんいたの。何にもないの。
・2月中旬から5月末までだから、戦闘は。硫黄島は1000人くらい生き残った。硫黄島の戦闘はちょっと違うんだね。民間人いないしね。特殊な戦闘だね。入り乱れて。

●グアム、ハワイ、シアトル、ペンシルベニアと送られる
・5月の末に米軍に投降した。グアムで尋問を受けて、ハワイに送られた。マリーンのほうで尋問を受けた。サンフランシスコに行く船とシアトルに敷く船があって、シアトルに行ったの。そこで尋問、ペンシルバニアにいくと、ドイツ人とかイタリア人の捕虜もいたね。12月17,8日ごろに昭和20年。内地に帰れたの。昭和21年1月7日に浦賀に着いた。
・グアムにいた時には、相当捕虜いたね。尋問の時に、反米派とか親米派とか分けられるの。皆。何回も尋問して分けるの。聞くところによると、日本人の収容所は2つあったらしいね。5000人くらいいたらしい。一番最初に真珠湾で捕虜になった坂巻とかはカナダに近いところでね。
・捕虜の待遇は非常に良かったね。食べたことないもの食べさせてくれるしね。一週間もするとどうしようもないんだね。ビフテキみたいなの食べさせられるの。そのうち飽きて味もないから食べれなくなるの。食後にデザートが出るの。紙か何かに包んで、夜食べるんだ。そういうことすると、衛生上悪い。そのうち、日本人にデザートを与えなくなったんだ。
・ドイツ人3000人、イタリア人1000人いるところ、リッチモンドに行ったときなんだけど、疲れて芝生に寝転んでいたの。ドイツの捕虜がね200人くらい並んで、5列縦隊なの。愛国行進曲を歌うの。日本語で歌を歌うの。歓迎して歌っているんだね。こいつら何やっているんだって最初は思ってたの。寝転んで聞いていると、金網からいろいろ投げてくるの。タバコとかかみそりをね。日本人はわれ先に拾うんだね。ドイツ語のわかる軍医がね、「分け合って使え」と言っているんだけど、日本人は自分の分を奪い合う感じなんだね。しばらく1時間くらいして宿舎に入ると、バケツとモップをもって出て来いっていうの。ドイツ人が蹴っ飛ばしてくるの。何言っているかというと、「日本人にドイツの部屋を掃除する義務はないから返してくれっていうの」。
・ドイツ人とかイタリア人は掛け算苦手だよね。日本人はできるんだね。管理していると、物が足りなくなるの。日本人がごまかしているんだね。何か問題があるのは日本人なんだよね。人よりひとつでも物を持つので優越感があるんだね。作業できるのは日本人。だけど問題起すのも日本人なんだね。

●1946(昭和21)年1月7日 浦賀に復員

最終階級
取材日 2005年9月18日
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posted by 戦場体験放映保存の会 at 16:13| 個人の体験談