吉村章(よしむら・あきら)さん
生年月日 1919(大正8)年2月10日生
当時の本籍地 奈良県
陸軍
所属部隊 歩兵第38連隊、独立速射砲第5大隊(青木部隊・波6250)第1中隊、独立混成第45旅団独立歩兵第273大隊(球14170・楠瀬部隊)本部指揮班
兵科 歩兵
戦地 南支(広東)、香港、ジャワ島(バンドンなど)、満州(北孫呉)、沖縄
・奈良県橿原市生まれ。
・母親は産婆さんだった。戦争中でも勤労奉仕に行ったりしていた。
・生まれた時におばさんの家に行ったが、それからそのお父さんが亡くなってしまったので、幼稚園の時に本家に戻された。
○1936(昭和11)年 奈良県立畝傍中学校を卒業
・大阪の金物商の会社に就職。
・釘や針金などを配達したりしていた。18か19歳の時には免許をとって自動車にも乗っていた。
・親戚がこの会社に入っていて、「誰かおりませんか」と言うときにちょうど私が中学校を卒業したので、「お宅の息子さん連れてきてください」ということで入った。それから兵隊に行くまでこの会社にずっといた。
・20歳になると軍隊に入るための身体検査があった。私は身長が低かったので第1補充兵となった。
●1940(昭和15)年9月1日 応召、奈良県の歩兵第38連隊に入営
・田舎を出る時、お宮さんで送ってもらった。楽団も出て太鼓をたたいたりして駅まで送ってくれた。
・戦争ってどういうふうなことか分かりませんからな、まあどうにか、行ったらええわと思って、まあそういう気持ちで行った。
・38連隊の速射砲隊に入った。速射砲は戦車を攻撃するもので3か月間訓練を受けた。この間に上等兵にいろいろとやられて、殴られたこともあった。
・9月1日に入営して、ああやれやれ来たなあと思って、兵営の中で一服していたら「初年兵出てこい」って言われて、「何かなあ」って。たら古兵が演習から帰りましたやんけ、あの、あっちの饗庭野演習場から帰って来て、それを「出迎えせんだ」って言うて、そこへ初年兵を全部ならべて、バチンバチンバチンって殴られた。それが最初の最初や。殴られたんは。
・日夕に古年兵が見て回りまわる。ちゃーんと荷物を真っ直ぐに置いていないと全部だーっと引っくり返して、「もういっぺん並べやれ」。
・夜中あかんかったら、捧げ銃を10分か15分じゃなしに、こうやって、えー、「ええわ、もう寝ろ」っていうて、寝る。
・ご飯でも、もう言うたら1膳飯や、ほんまにな。アルミのそこで、食べてやな、人より遅れたらあかんで、ばばばばっと、こうやって茶漬けして、ばばーっと食べて。
・「行ってまいりました」っていうて、そらもう出る時になりましたら、「だれだれ一等兵、これから便所行ってきます」言うて、みんな言うねんであんた、黙って行かれへんで。で「ただいま戻りました」って。それもう、「お前ら天皇陛下の子や」なんて言うて、何が天皇陛下の子や、いまはそんなこと言われへんけどな、昔はそんなこと言うてましてんで。なんでもこれはみな、銃やそんなもの「天皇陛下からもろうたもの粗末にしたらあかん!」と言われる。
・初年兵の時が一番つらいかった。食事の時は人より遅れたら怒られる。見とんねや、ずーっと。「おそい!早く行け」って言われてな、そんなことな、その中には遅いのもいるけど、お茶漬けにしてばばばばーって。それはそんなことしてたらどうなんねん、ほんまに。演習から帰って来てから、ちゃんと自分のやつやって、そんで今度は、古兵のやつをな、泥ついたやつ、ずーずーずーって磨いてやって、洗濯物をする。
・古兵が1人ついていた。ちょっとくらいの上の人やったな。わしらまだ星1つやで。むこう2つぐらい。それがええ人やったらなあ、「おいお前、わしが酒保行って買うてきたるわ」いって、何かお菓子を寝床の中へ入れてくれる。その代わりこっちはまあすることはしてますけどな。で晩に寝てこう食べると、もの食べると、不寝番回ってきますやろ、ちゃんと、そういうことおましてんでそらもう、おもしろかったわしも。
●広東の青木部隊へ(※独立速射砲第5大隊とみられる)
・大隊長は青木少佐。
・1回だけ松竹の看板娘の栗島すみ子が正月に広東へ慰問にきてくれた。
・広東で40度の熱が出て、ものすごいもうがたがた震えて、演習にも行かれなかった。
・兄の友達が中隊の幹部で、「お前吉村、お前もりおか(兄)の弟やろ」、「はあそうです」といったら、「そうか、だったらお前もう演習行かんでもええわい、家ですっこんどれ」と言われた。
・本当だったら兵隊は晩に外へ出られないが、兄の友達が「おい吉村出てこい。これからちょっと食事に連れていったるで出てこい」。その人は中尉ぐらいで広東ではよくかわいがってもらった。他の人は絶対できない。
・砲を分解搬送して、ちゃんと車輪から全部担いで運ぶ演習をしていた。22、23歳ぐらいの時にはとてもあがれない。それを言ったら、「寝とれ」と言われた。あれだけは助かったほんまに。あの人よう言ってくれたと思うわ。
・その人はそれから硫黄島に行って病気になって帰って来た。学校の先輩で兄と同じ30回生、私は36回生だった。
・兵隊の中でもな、殴られとおしで、もうどうしたらええのかなあ、逃げて帰りたいと思う人あって、まあ理不尽でなあ。そらぱぱーっと殴られて。
・演習に行ってもやな、あの、こないとこばさーっとしたら、なかに、うんこやらそんなあって、べたーとくっついたことあんねんで。
・中学校を出ていたので、准尉が「お前幹部候補生の試験受けてみろ」と言って、一応はやりましたけど、身体検査ではねられて、「あきません」て言われた。なっていたらえらいことやけどな。
・広東では、いわゆる、中隊付きの、わしの兄貴の友達がな、連れて行ってもろうたで、そんな絶対でていけへん。外出はあまりなかったですよ。うん。
・朝香宮なんとかいう人が来ていて、そこの兵舎の警備をした。24時間警備で交代でやった。
・広東のことはあんまり書いていない、まあいろいろわしあんねんけど、そら絶対言わん、死ぬまで言わんて。ある程度のことはいいますけどな、それ以外に、いろいろなこともあんねんで。
(※昭和16年11月29日に香港攻略のため広東市出発。1月8日英支国境通過。(部隊略歴))
●1941(昭和16)年12月8日 太平洋戦争が始まる、香港攻略へ
【※昭和16年12月18日、香港島上陸(部隊略歴)。】
・香港島攻略に参加した。多数の戦友を亡くした。同年兵も亡くなった。
・香港では自動車の管理をしていた。戦闘には参加はしていない。中国とジャワと満州は全部自動車で後方部隊にいた。
・香港島は、大きな島みたいになっていて、山には要塞があった、
●1941(昭和16)年12月25日 香港島を占領
(※12月29日から香港・元朗墟付近の警備(部隊略歴))
・しばらくして台湾の台北で部隊を整えて、再び、ジャワ島のジャカルタのバンドンに駐留した。
・台湾では部隊の自動車を整備した。
(※昭和17年1月14日、元朗墟出発、九龍到着。20日九龍出発、1月20日〜3月11日まで南部スマトラ作戦に参加。2月15日スマトラ島パレンバン上陸。20日タンチュラカン着。2月25日、タンチュラカン発、3月5日マルテボ着。3月6日マルテボ発。3月16日ヌンガイダレ着、3月20日パレンバン着、4月3日パレンバン発)
●1942(昭和17)年4月 ジャワ島に上陸
(※昭和17年4月3日パレンバン発、8日ジャワ島バタビア港上陸、9日バンドン着、4月25日バンドン発、同日クラワン着(部隊略歴))
・ジャワ島でバンドンの市内警備をした。
・ジャワではジープに乗っていた。むこうのかどうか、置いてあったかどうかはわからない。
・ジャワでも支那でも偉い人の車を運転していた。将校の送り迎えをした。連隊本部から行ったりきたりした。
・ジャワではフォードのV8に乗っていた。そらええです、車庫にあった10キロか20キロくらいしか走っていない車をみんなとってきて乗っていた。
・事故を起こした。さあどうだったかしらんけど、崖から落ちていって、ずーっといったで、よう助かったと思います、燃えてしまったけど。
・自動車はたくさんあった。満州でもよく乗った、支那でもよく乗っていた。乗ってたしね、その時分は日産が多かったんかな、蛇腹ついてますわ、蛇腹。いまそんなんおまへんやろ、前のボンネットのとこな、ぐーっとこう、とって、ぐーっと、やってました。
・車はみな軍が徴収したものばっかりだった。
●1942(昭和17)年7月 満州の北孫呉に移動
・それからのちに、今度は北満の北孫呉に移動した。
・北孫呉は零下30度になるところだったが、その時は夏服でいた。結局、しばらくして内地から防寒具を送ってくれた。
・満州に行った時には階級が上になっていた。初年兵がぎょうさん来ていて、いろいろ話して、言うことを聞かないとばばばーんと殴った。最初と最後。殴った、殴り返した、そういうことしたらあかんねんけどな、軍隊ってのはそういうことですよ、もうそれは厳しいですよ軍隊は。今の自衛隊とは雲泥の差だった。
・夜中でもちょっと悪かったら、「全部起きろ!」と言って並べてバンバンバンバン殴られた。
・ジャワでは半分裸だったが、北満に行ったとき零下30度を下ったら、このとおりバンととってひっついて、はがれへんで、銃なんかこう、そんなやったら、ほんまに。そんで、まあまあ、どうにかこうにか。
・便所をすると凍ってしまった。山になってんねや。つららなってこんななってる。
(※昭和17年7月4日、大陸命六百五十四号をもって独速射砲第5大隊を含む南方軍の軍直轄部隊の一部が満州と内地に抽出された。(戦史叢書「大本営陸軍部<4>」P387) 独立速射砲第5大隊は満州の第四軍の隷下となり、昭和17年7月25日にジャワ島クラワンを出発、シンガポールなどを経由して8月24日大連上陸、9月10日に黒河省の神武屯に着き、同日より同地附近の警備に(※部隊略歴))
●1943(昭和18)年、召集解除
・満州でも、ようあんなとこで、召集解除になったと思いますわ。
・除隊して内地へ帰り1年間働いた。
・働いていた時に後の家内と親しくなった。
●1944(昭和19)年12月 2回目の召集、独立歩兵第273大隊に
・行く時に、後の家内に「必ず生きて帰ってください」と言われた。
・大阪の高槻工兵隊ってとこがあんねんや。わしはその工兵隊に入りましてんで、「なんでこんな小さい体が工兵隊でなあ、行くのか」と思った、それで歩哨係の偉いさんやって、子分をつれて回ったりしていた。
・それから大阪8連隊で部隊が編成されて、近畿地方各県からよ600人ほどを寄せ集めて、それで沖縄に行った。
・この中には中学校の同級生もいて再会を喜んだ。
・部隊の名前は球14170部隊。隊長は楠瀬さんで、高知かどこかの人だった。
(※球14170部隊(独立歩兵第273大隊・大隊長楠瀬一珍大尉)は昭和19年10月、大阪天王寺商業で編成。11月、大阪発。門司、鹿児島を経て、12月に那覇着。島尻郡安里小学校に入る(部隊略歴)。62師団の指揮下で戦闘。6月6日部隊解散。生存者は独歩12大隊重火器小隊に)
・門司で民間人の家に1
泊して家内に手紙を書いて出した。軍隊ではちゃんと検閲をするので出せない。それでその家へ「これをすいませんが、あの、大阪へ出してください」といって出した。
●1944(昭和19)年12月頃 沖縄に着いた。それからしばらくいた
・那覇にいた。
●1945(昭和20)年4月1日、アメリカ軍が沖縄本島に上陸
・(米軍が)上がって来るの見てました。ちゃーんときよったな、上陸用舟艇がずーっと来てのう、4月の1日にな、ちょうど、こんなんは見てへんけど、見たらわかりますわ。「もうほんま側まで来てんで」ってな、「こらあかんで」っちゅうて皆でーっと後ろへさがって。ほんでいってる間に、その時に艦砲射撃やられてな。ちょうど4月1日に上陸してきよったで。それから何日もせん間にどーんとやられてな。
・そらもう軍艦がずらーっと並んでな。上陸用舟艇20隻も30隻もずーっときよんねん。アメリカ兵が一生懸命でっでっ走ってきよんねん。これはあかんなあと思うて。「逃げろー!」ってみな逃げてしもうて。
・空はあんまりみなかった。すでに日本のそのあのみんなやられてもうて、日本の軍艦もなあ、特攻隊もやられてるわ。沖縄ではな。
・むこうの飛行機もけえへんな。見たの上陸用舟艇ぐらいだけや。
・戦車は見たこともない。わしは。あんなとこに戦車も上がって来えへんやろと思ったけどな。それはどっかにあがってんねんやろうけど、わしは見たことない。ただもう、兵隊が、上陸用舟艇でずーっとあがってきたのは見ましたわ。
●負傷
・那覇からずーっと摩文仁の丘まで行った。
・私は大隊本部の指揮班に属して各中隊と連絡をしていた。そのうちに艦砲射撃で鉄兜の上からやられて、鉄兜にものすごい大きな穴あいて、血がどろどろっと流れて、そのまま持っていた三角巾を絞めて後方に下がった。
・それからしばらくして、今度は迫撃砲でやられて、足も、手も、手も今はこれ不自由になって、どうでも、ようしませんけどな。
・自分でなにか処置しただけやでそんなもん。がーっとくくってやなもう、出血止まって、頭ぐるーって巻いてや、そらしょうがない衛生兵も誰もおらんで。そうでっせ。だから死体でもそこらごろごろごろごろ転がってんねんで。誰もそんなもん始末せえへんねん。
・そらもうその戦闘のやつはな、もの凄いあの、残忍なこともあったしね、あれですわ、なんですわもう、ああそういうことは言われへんでな。そういうこといいますか? はらわた出たり、首のないものやったり、手のないもんやつや色々いてますねんや。そんなんわしは目の前で見てますねんで。それは一番悲しいねえ、戦友が亡くなったり、班長が亡くなったとそういうことはほんまにあれですわ。ようそんだけ自分の体も生きて帰ったと思います。わしだって手こんなんですよ、今ね、これがいけませんねや、これやったらいきますけど、これが一番最高の力ですよこれ。というのはなあ、まあでも、こっからやなあ、こっちへこれ弾抜けてまして、迫撃砲の弾がな。そんでまだ、背中にはなあ、弾が残ってますねん3発。レントゲン撮ったらよう分かる。それでMRIにぜんぜん入られん。機械があったらあの、その機械が分かるんで、あきませんていって。わしもこないだ行って知ったけどね。そんなんでした。もうほんまに戦争は嫌ですわ。
・いったんほんまに僕は死んでもうたみたいです。もう頭やられるわ、足もやられるわって、もうどうしたらええかって、ほんまそうでしたよね、そういうこと思いしてんで。よう自分ながらに生きのびたと思いますわ。なんにも、薬もなんにもないとこでなあ。そらもう、こってるとこで、鉄の上この位穴あきますんで。なあ、だから、だだだだーと流れてきてなあ、ここへ三角巾持ってました。あれでよかったんや。それをぎゅーと締めて、鉄兜しめてまた、後方へ下がりましたんや。
・それから、その時はどうもなかったけど、2、3日してからかなあ、その、わしの、よその中隊の人がな、わしといっしょに、壕からこう、海眺めてましてんや、わしは鉄兜かぶって、その人はよそのあの、とこですがね、艦砲射撃でずーんて眉間やられまして、すぱーんとひっくり返りましてんで。わしはまあ、「ああこれはあかんなあ」と思って、鉄兜うえでいたんで、よかったです。ずーっといかないで、その人もころんと亡くなりましたけどな。どうもあれ可哀想なかった、どこの人かしらけど、そのまま掘って、わしも帰りましてんけど。
・それからしばらくしてわしと班長が夜間にな、ばんばんばーんと撃たれてな、足をここやられてもう即死ですわ。あの即死というころやけど、まあ息はあったんや。そんでこれはまあ、「うちの家に(※軍刀を)持って帰ってくれー」と言うてな、「絶対に持って帰られへん」と思ってました、わしはな。そんなことがして。まあまあ長いその、壕の生活も色々ありましたわ。わしの戦友でもな、もうわしは内地には帰れんてな、この民間人と一緒になりますわっていう人いてましてんで。
●壕での生活
・5月ごろから、ずーっと壕の中に入って、そこで色々民間人と話をして、食べ物などをめぐんでもらったりした。
・すぐ海で、どこの部隊の人かわからないが、筏を組んで行ったが、ずーっと軍艦がずらーっと並んでますやがな。そんなんとても行かれやしなんがな、あんた。でなあ。連れて帰られて収容所へ入れられた。
・火炎放射器はそのときは全然来てなかった。わしらが壕にはいる、6月か7月頃から、ぼつぼつ、その壕に。むこうはなんぼでもおまんねんで、壕が。自然の壕がな。中には、ぽっつりぽつりと水が落ちてるとこもあるけどな、わしらのとこはその、あんまり、そういうことはなかったし、外へいって水をくわんことにはあきませんでな。
・(壕の中は)民間人と私ら兵隊だけ。それはもう他のものは誰もはいってませんわな、みな、みな、兵隊が逃げて、なんぼか、20、30人くらいおったかな。兵隊と民間人あわして20、30人しかおらんねん。
・そんなん誰が誰だか、分からへんわな。どこの兵隊か分からん。みんな逃げてきて、何しとんねんでな。同じ部隊の者もおらんしな。よその部隊からとんでくるやつもおんねん。
・中には、何か言うやつがおんねん。色々な。兵隊でもな、わしの友達でも、「わしはもう内地へ帰らんとここの民間人と一緒になるわ」って、わしと話しとったわ。女の人もおったでな、その人と一緒になるわって言うても、その人は大阪の人やったけどな。そらもうその頃ぜんぜん、なにしてんけど、兵隊のじぶんはよう話してたんでな、われがおれがってな、「お前わしはな、内地帰らんでここの民間人とあの、奥さんっていうか女の人と一緒になるで、帰ったらよろしく」言うて、こんなこと言いよんねん。面白半分にな。わしらより。それはもうそんなもん。どうせもう亡くなってると思うけど。わしらより年大分上やったけどな。そんなもう100才も、いま近くなってるわ。たぶん亡くなってるわ。全然それから後にもなんにもあれへん。連絡が。ようそんだけ永らえたと思うわ。自分ながら。
・民間人のほうが多かった。むこうはよう自決せえへんだけどな。
・あの時分はまだ自決するやつおらんかったわ。あっちはまたなひめゆりの塔とかな、おましたやろ、あんなのはよう自決してますやろ、あの時わしら手榴弾持たされたんかなあ。わしは持ってなかったわ、手榴弾は。皆持ってなかったで、全部兵隊でも。その部隊によってな。ほんまはなあ、あの、あれに、わしらの本、戦陣訓ってやつがな、そのとこに、もしなった場合はな、自分でやれって、手榴弾持って自分で自決せえって、書いてまんねんや。恥をさらすなって言うとんねん。わしらそんなアホなことよく言うかっちゅうて。
・「お前ら捕虜になったらみんなアメリカいって殺されるぞ」って、こんな事言うやつがおんねん。なかにはな、流言飛語が飛ぶんでな。あれ。どんなとこで言うのか知らんけどな。わしはそんなことはないやろと思ってな、じーっとしてたら、結局8月15日なった。
●1945(昭和20)年8月15日 米軍に投降
・6月23日に沖縄は終戦になりました。投降する人もおりましたけどな、わたしたちはもうそんなことはないと思っていて、結局、8月の15日に、アメリカの2世が、「戦争が終わりましたからみなさん出てきてください」と言って、で、「ほんまかなあ」と思って自分は行った。
・民間人は出てけえへんのやろ。わしは1人だけ先でてきた。
・いったん上あがったら、下へは降りてこられへんから、それでもうしゃあない、後がどうなかったか知らない。
・そらみな聞いてるやろ、放送してる、大きな声でやな、戦争が終わったから、わしは1番に出て行って。戦争が終わりましたから出てきてくださいって言うてるわけや。
・裸にされてDDTをまかれて、それで「ああこれはほんまやなあ」いうて、それで班長さんからあずかった軍刀もとられまして、遺族に渡してくれと言いましたけれども、それは出来なかったんで、それが残念です。
・それで持ってるもの全部とられてもうてな、わしはタオルをな、隠してて、タオルだけ持って、このタオルとかな、それを持って行ったら、収容所へ入った時な、そのタオルいうやつやなんかとな、たばこと交換してくれまんねん。そういうこともあんねんで。日本のものはなんでも欲しがってあのアメリカ人は、収容所へきてると、フラフラして、「ヘイ、ユー、ヘイ、ジャパニーズ」っていうて、言いよんねん。「持ってるか」っちゅうてな。わしも、タオルかあったかしらんけど、それ出したら、「OK」ちゅうて、煙草1つくれてんで。それはもう色々な人がおまってな、中にはな、持ってる人もおんねん。それは戦争やったら、そんなんと一緒にもったやろ、日本の色々書いてあるもんも、持ってるとそれをアメリカ兵は、「交換してくれ」っていうてせがんでな、ブーブーユーユーって言いよりよって、なにがなんなんだら。これ、交換してくれって言うんだよな。
・収容所へ行こうと思ったらやな、もう全部ブルドーザーが来てな、ぜーっと道路直しまんねんで。しまいにはでかい車が来て、だーっとやって、そんで飛行場みたいな集まって、そこで、自動車に乗せられてな。裸ちゃうけど、着てるもんは着てますけどな、もうなんにもなしに。
・あとの人はどうなかったかわからない。民間人とは別々になり、それからずーっと牧港へ連れていかれた。それで自動車にのせられて牧港へいったら、もうすでに何百人が収容所にいた。
・使役ということは、結局その残骸をな、とりにいったりする。道路をこさえるので、ブルドーザーも来てますけどな、他にすごいやつをみな、あの、なにが運んで、なにがしまんねや。
・使役に対しては給料も出た、あれはほんまに不思議やったわ。アメリカはなんぼか知らんけどくれた。それで日本へ帰ってから、交換してもろうてな、そんなもん忘れてもうた、なんぼもろうたんかしらんけど。いろいろなことおましたわ。
・サイパンの方に送られた捕虜の話も聞いた。
・捕虜収容所に半年ぐらいいた。
・いろいろ待遇がよかった。食物がよかった。
・収容所の所長は憲兵曹長と言っていた。その人は4月1日にもう捕虜になっていた。
・将校はまた別にテントがあって、そこへ兵隊をつけて、食事のあれやったりしとんねんで。将校は。なんでそんなことすんねんてな。おんなじ捕虜になってんのに将校だけなんで優遇せんなんねんて。
・慶良間諸島など、小さい島にいた将校が捕まって先に入れられていたと思う。
・収容所はほんまに生活がよかったですわ。それでわしらも思うことはな、なんで将校とわしらのそういうへだたりがある、将校に対しては当番兵が付いてますねんや。それはいちいち、何したりしてまんねんやな。兵隊は兵隊でなあ、別に何もありませんわな、ちゃんとむこうは将校やな、ちゃんと上げ膳据え膳でやってますねんや。そんなことあるかなと思って、そこにも書いてますけどな、そんなもん、なんでそんな事すんねやろ、もうもう一歩われわれと一緒と違うかと思ってなあ、なにしましてんで、ほんまに。
●1946(昭和21)年 復員、浦賀港へ上陸
・大阪に帰って来た時には焼け野原でなあ、ぜんぜんもう家が見えなかった。
・それで家へ帰って、まあまあ、もうね戦争は終わりましたなあと思って、そこでまた、元の会社へ勤めて、結局家内と昭和22年の2月24日に結婚した。
・600人いた部隊は、生きているのは60人ぐらいしかいないと聞いた。
取材日 2016年7月15日