布施登さん
生年月日 1926(大正15)年3月8日
当時の本籍地 山形県
陸軍
所属部隊 第107師団歩兵第90連隊(181部隊)
兵科 通信兵
戦地 満州・新京、興安嶺、斉斉哈爾(チチハル)
○1944(昭和19)年 学徒動員
・「日本飛行機」−通称「ニッピ」山形で海軍練習機の部品を作る
○1945(昭和20)年2月初旬 新京法政大学経済学部に入学(新京特別市南嶺)
・単身渡満
・全寮制。学生は中国人が大部分で、日本人は10分の1、全校3学年、900人
・教授たちは皆日本人で、全満州から優秀な学生が集まっていた
・授業も試験もすべて日本語、リベラルな教育で人種差別など考えたこともなかった
●1945(昭和20)年7月中旬 召集令受領
・関東軍から日本人学生だけ40数名に召集令状
・8月10日に満州・興安西省ハロルアルシャンで入隊するよう命令
●1945(昭和20)年8月8日 汽車で新京出発
●1945(昭和20)年8月9日 ソ連侵攻
・朝、白城子の車中でソ連との開戦を聞く
・新兵受領の下士官に引率され白城子から阿爾山(アルシャン)に向かうが、一つ前の駅で汽車は停車、原隊めざし線路を歩く
・途中大砲の音が聞こえる
●1945(昭和20)年8月10日 第107師団歩兵90連隊に入隊
・アルシャンには30分の滞在ですぐに引き返す
・いよいよのときは軍は新京に集まることになっていたので山を下り新京に向かい歩く
・ソ連軍の車には「Made in USA」とあった
・橋は日本軍が渡った後爆破
●1945(昭和20)年8月15日
・ソ連軍の大部隊に追われ激戦となり興安嶺山中に転進
・終戦は知らされず
●1945(昭和20)年8月16〜27日 興安嶺山中を転戦
・ソ連軍は15センチ榴弾砲を撃ってきた
・通信兵は20人に一人しか鉄砲を持っていなかったので、山に霧がかかった時をねらい、走って稜線を越えた
・死者も出た。転進中、野原のノビルを探し、また蒙古人部落の馬鈴薯やナスを採り、生で食べた
・生の馬鈴薯で下痢を起こし、それが慢性化し、ガリガリに痩せた。これが運命の分かれ目で、後にソ連抑留を免れることになる
●1945(昭和20)年8月28日 札蘭屯(ジャラントン)に集結し武装解除
●1945(昭和20)年9月 斉斉哈爾(チチハル)に移動
●1945(昭和20)年10月中旬
・日本兵1500人を作業大隊として編成するため身体検査が行われ、病人として外される。作業大隊はシベリア抑留に出発
●1945(昭和20)年10月末 斉斉哈爾(チチハル)陸軍病院に入院
・入院して1ヶ月ぐらいで体調は回復し、病院の炊事係にまわされる
●1946(昭和21)年4月 中共軍が入って来る
・中国内戦で中国共産党軍が入ってきて病院から出され、仲間3人で難民となる
・仕事もないので食うに困り、近くのノン河でフナやカメを取って路上で売ったが売れなかった
・中共軍の兵士は服装はぼろぼろで、鉄砲も普通のものだったが、民間人のものを奪い取ることは一切なく、軍規は厳正に守られていた
●1946(昭和21)年8月 帰国へ
・8月初旬、日本人難民を国に帰すという話が出た
・帰る道中の食料は自分たちで調達せよといわれ、米の粉でパンを作りしのいだ
・無蓋車に乗せられ斉斉哈爾(チチハル)、哈爾濱(ハルビン)、新京、錦州に行きコロ島に渡る
・中共軍の兵士がぼろをまとっていたわれわれのために裕福な人から布団を取り渡してくれ、汽車に押し込んでくれた
・8月末、アメリカの運搬船サムエルコード号で1週間かかり博多港に着く
・健康検査で船の中で博多港に1週間待機させられた
●1946(昭和21)年8月31日 復員
・引き上げ援護局で満州や軍隊のことを聞かれた後上陸
・軍人としての1年間の給料300円と帰りの切符をもらい、同郷の友人たち4、5人で山形へ向かう
・途中、浅草に寄り白米のご飯を食べたが100円も取られ、インフレのすごさに驚く
●1946(昭和21)年10月3日 左沢(あてらざわ)に帰る
最終階級 二等兵
取材日 2010年8月1日
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