2021年05月04日

大石嗣男(おおいしつぐお)さん

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大石嗣男(おおいしつぐお)さん

生年月日 1922(大正11)年3月8日生

陸軍
所属部隊 船舶工兵第1野戦補充隊(暁6142部隊)第2中隊
兵科 船舶工兵
戦地 フィリピン・セブ島

・米国カリフォルニア州アラメダ市生まれ。
・日米二重国籍だったが、戦後米国籍を失った。
・父が牧師だった。教区長の牧師が、「いずれ日米は戦争になるかもしれないので、子供のためにも帰国したほうが良い」とアドバイスして日本に来た。

●1943(昭和18)年12月 青山学院大学在学中に学徒出陣
・有名な神宮外苑や大学での壮行会には出なかった。
・12月1日 広島で入隊、7日 宇品港発。

●船舶工兵第1野戦補充隊(暁6142部隊)第2中隊に配属 フィリピン・セブ島リロアンに
・乙種幹部候補生に
・米軍の上陸前から、地元のゲリラには米国の武器が供給されていた。
・日本軍の行動は何処からかゲリラに察知されており、度々待ち伏せを受けた。大石さんは英語が話せたので現地の住民との関係は悪くなかったが、「大石のせいでこちらの行動が漏れるのではないか」と当初随分疑われた。
・リロアンの街のそこここ、マッチの裏などにも「I shall return」と書かれていた。
・1944(昭和19)年12月、600名がカモテス海ポロ島に進出したが、翌年1月には壊滅。その後他の島々に渡った兵士達も含め殆どが亡くなった。
・大石さんはセブ島に残留しセブ防衛軍を編成。

●1945(昭和20)年3月26日 米軍上陸
・米軍はセブ市付近から上陸、海岸線から砲撃を重ねた。
・米軍の砲撃は9時から5時までという様なやり方で、夜は煌々と明かりを付け普通に生活していたのがひどく印象的だった。日本軍は最初そのやり方が分からず夜もまんじりとせず消耗した。
・セブ島では陸軍の方が海軍に比べ多数派であった。そのためか、陸上での戦闘に慣れていない海軍の兵士が前に出され可哀想だった。
・陣地を捨て、山岳部に入ることに。食糧、弾薬の補給なくセブ島北部へ。
・当初北進の命令が出、その後南進の命令が出たが、何故か自分の中隊にはそれが伝わらず(?)北へ向かい続けた。結果的にはそれがこの中隊の被害を少なくした。
・セブ島はフィリピンの他の地域に比べるとまだしも食糧はあり、現地人からの徴発(つまりは“かっぱらい”)である程度調達出来た。
・一番枯渇したのは塩で、便がピンクになった。塩の補給のため水牛を殺し、その血を飲んだ。
・弱った者が「置いて行ってくれ」と懇願すると「戦線離脱になる。軍法会議にかけられるぞ」と将校が言う。「この状況で何が軍法会議だ」と武器を捨てさせ無理矢理連れて歩いた。
・6月中旬、米軍に出会い頭に狙撃され、1発は手を貫通、もう1発は胸部に。(今も胸部に残る銃弾のレントゲン写真を見せて頂きました)。薬はなかったが、ウジ虫が膿や患部を食らってくれ治癒した。

●1945(昭和20)年8月下旬 セブ島イリアンで投降
・軍使が廻ってきて敗戦を伝えた。投降は特に異論もなくスムーズだった。それ以外に選択肢が無いことを皆がよく分かっているような状況だった。
・自分たちはある程度まとまった人数が一緒だったので、軍使が来てくれた。途中で脱落し単独行動になった人たちは、敗戦を知らずにいつまでも逃げ続ける事になり、ゲリラに殺される者も多かった。

●セブ島タリサイ収容所に
・住民による面通しが行われ戦犯を捜す作業が始まった。その通訳を務めた。
・一方収容所内では元新聞記者を中心に壁新聞が作られ、日本の様子の情報源となった。文化活動も始まった。

●1946(昭和21)年11月 復員

最終階級:伍長
取材日 2006年11月11日

●カモテス諸島での虐殺事件
・カモテス諸島に渡った部隊の中で、パシアン島(? ポンソン島との資料もあり)の教会に女・子供を千人近く集め、一斉に銃殺するという 大量虐殺が行われた。
・これは米軍上陸直前に第4中隊のメンバーによってなされたが、元々日本軍の方も生き残りが少なく、戦犯を問われる重大事件であったため箝口令もしかれ、そこに至った経緯や詳細な状況を大石さんは知らない。
・戦後この大隊の戦友会「リロアン会」では、現地でスポーツセンターなどを皮切りに、諸施設の寄付を繰り返し、牧師になった大石さんは中心的に関わった。このため当初は一人では歩けなかった現地の状況も次第に友好的に変わったが、この虐殺の島には今でも行くことが出来ない。
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posted by 戦場体験放映保存の会 at 16:15| 個人の体験談