2021年05月04日

成川貞治 さん

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成川貞治さん

生年月日 1918(大正7)年4月14日生
当時の本籍地 山口県柳井町

陸軍
所属部隊 歩兵第142連隊、独立混成第33旅団砲兵隊、第105師団砲兵隊
兵科 砲兵(野砲)

○広島高等工業学校卒業
・アメリカに留学したことのあるK主任教授は、日本は絶対に戦争に勝つことはないと断言していた。真珠湾攻撃の前まで学校の中では皆、好き勝手なことを言っていたが、12月8日以降口を閉ざすようになった。

●1942(昭和17)年2月1日 徴兵されて広島野砲第5連隊に入隊
2月3月、広島で初年兵訓練。4月、甲種幹部候補生に。

●1942(昭和17)年5月 保定予備士官学校(河北省)入学
・広島県宇品港から中国・河北省の保定へ
・保定の予備士官学校時代、腸チフスが流行った。入学した約一千名の初年兵の内、2割が死んだ。自分も腸チフスにかかったが、柔道三段で体が強かったから死ななかった。厨房に雇っていた中国人の仕業ではないかと自分は疑っている。真相は不明。
・なんで中国の保定に予備士官学校があるかというと、内地の予備士官学校が満杯だったから。戦争が始まって兵隊の数は増えたが、兵隊を統率する将校の数が足りないから、将校を養成するために急いで保定に学校を作った(注:保定にあった中国の陸軍士官学校を日本軍が接収した)。
・軍の方から遺族の方へどういう風に説明したか知らんけど、軍隊の訓練で2割死んだなんてヒドイもんですよ。

・大砲の指揮班に所属
・大砲は明治38年式の75ミリ野砲。飛距離は1万1千メートルくらい。照準は200メートル毎に中点をとる。撃てば大砲はよく当たる。だけど、大砲を6頭の馬で引いとんですよ。時代遅れで話にならない。

●1942(昭和17)年11月 卒業、見習士官に。広島の原隊へ復帰
●1942(昭和17)年11月 比島派遣軍歩兵第142連隊に転属
●1942(昭和17)年12月3日 北九州の門司を出発
●1943(昭和18)年1月8日 フィリピン上陸。北部ルソン島で警備任務につく
・北部ルソン島に一年半、警備任務についていた。ゲリラの討伐なんかやっていた。アメリカ追い出して日本軍が威張っている時。マニラ、バギオ、北サンフェルナンド海岸、連絡なんかでね、あちこち行ったですよ。
・バギオの方に、日本軍が管理していたマンカヤン銅山があって、そこに日本の若い女性がいっぱいいたので驚いた。マニラの軍司令部にも大勢いた。みんな事務員ですよ。なんでこんなとこに来とるんかなー、可哀そうにって思った。軍が連れてきたのか志願してきたのか知らんけど。彼女たちももうちょっとしたら死ぬんだから、俺の愛人になってくれんかなんて、他の将校連中が話よったけどね。彼女たちは最後は悲惨な目にあってますよ。
・マニラには、日本からやってきた大きな高級料亭が何軒もあった。軍の幹部用。佐官級以上しか相手にしない。歩兵部隊の大尉と少尉が門前払いを食った。それで彼らは怒って、生きた鶏3羽持って座敷の中に踏み込んで、鶏の首を切って座敷を血だらけにして帰っていった。

●1944(昭和19)年2月 独立混成第33旅団砲兵隊へ
●1944(昭和19)年5月頃 マニラ南方のロスバニョスへ
●1944(昭和19)年6月 第105師団砲兵隊へ
※歩兵第142連隊は独立混成第33旅団の主力となり解隊。
1944年6月、独立混成第33旅団を基幹として第105師団を編成。
・昭和19年3月頃、レイテ島へ行けの命令。マニラで一カ月待機。混成33旅団は師団の半分くらいの兵力しかない。だから京都の16師団を代わりにレイテへ回した。
・5月頃、ロスバニョスで乗馬の乗船訓練。

●1944(昭和19)年10月 レガスピーへ移動
・南部ルソン島の軍港レガスピーへ、マニラから鉄道で移動。
・自分たちはレガスピーの山の手に陣地を作り、大砲据えて米軍が来るのを待っていた。米軍のB24爆撃機72機が昼間やってきて、港を爆撃していった。白鉢巻きをした海軍の対空部隊がB24を迎え撃った。彼らはおそらく全滅したろう。
・レガスピーへ来てから食糧が不足し出す。食べ物を探して来いと部下に命令した。8人ばかり食糧徴発隊を出した。悪いことして取ってきたんでしょうな、8人最後は殺された。

●1945(昭和20)年2月 マニラ東方高地へ転進命令、3月頃マニラ高地へ到着
・既に日本軍が壊滅しかかっていた。
・(自分たち砲兵隊が所属した)野口兵団(注:歩兵第81旅団)は1万人くらい。野口少将が旅団長。部隊名がついているが、自分たちは何もわかっていない。部隊名は上の方で勝手に決めてるだけでね。
・米軍が押し出してくる。日本軍がまた押し戻す。そんなような状態が続いた。
・大砲は二門のみ。ロスバニョスで訓練していた時、自分の隊に大砲は四門あったが、実際に戦ったのは二門だけ。
・高地の上空には米軍の観測機がビュンビュン飛んでいた。大砲を撃つと白煙で位置がばれる。空から常に監視されている状態だった。
・4月頃、洞穴が600メートルぐらいある出口に大砲を据え付けて、砲兵陣地を作った。メーン道路の横丁で敵が来るのを待っていた。歩兵一個中隊が僕らの側にいた。敵は午後3時になると定期的に砲撃をしてきた。砲撃を受けると、砲を洞穴の奥へ引っ込めた。時々、偵察機が飛んできて洞穴陣地に向けて機関銃を撃ち込んできた。
・米軍は待ち伏せされるのをイヤがって、ブルドーザーで山のてっぺんに道路を作った。これでは敵に後ろへ回られるから、洞穴陣地を捨てて、下がって米軍の正面に陣地を作った。山の上に出てきていた敵に向けて、60〜70発くらい大砲を撃ちまくった。だいぶ敵をやっつけた。会心の戦闘はその時だけ。あとはやられっぱなし。
・観測機がやってきて、敵の攻撃が正確になってくる。最後に連続24発撃った。そこで何キロか下がった。N歩兵隊が頑張っていた。
・6月頃、(森の中に)横穴の陣地をつくった。川があってね、京都の野砲53大隊が残っていた。この時、僕は40度を超すマラリヤの熱でフラフラしていた。僕の陣地設定が良かったんだね。僕らの所へは敵の砲弾は飛んでこないで、ちょっと後ろの53大隊の1個小隊へタマが飛んでった。それで京都の野砲大隊がやられてね。
・もうこの頃に残っていたのはN歩兵大隊と僕の砲兵隊だけ。本隊のМ砲兵隊は一切戦闘していない、ずっと前に大砲を捨てて先に逃げてるんだ。
・兵団長がN大隊長と電話でひんぱんに連絡をとっていた。N大隊長が、もう持ちません、下がりますって言ったら兵団長が、下がっちゃならんと厳命した。それでN歩兵大隊は一兵残らず全滅。
・僕はこれはもうやられると思ったから、命令なしに大砲持って、旅団司令部の近くまで下がったんですよ。しかし司令部は何も言わなかった。
●1945(昭和20)年6月 中尉に昇進

●1945(昭和20)年7月頃 マニラ東方高地から太平洋岸へ移動
・最後の戦闘で15〜16発敵に向けて大砲を撃った。しかし敵の反撃で部下が4〜5名戦死。その後、部隊はバラバラの状態に。7月頃のこと。
・大砲を捨てて山の中へ逃げた。部下を連れて食糧を探し回る。水牛を2頭見つけて連れて帰ろうとしたら、先回りしていたゲリラに撃たれた。その時、部下が2人やられた。
・途中で輜重隊と一緒になった。輜重隊のS少佐が、太平洋岸へ出よう、お前が先遣隊になって道を開拓しろと言った。
・海岸に着いた。ドラム缶で海水を焚いて塩を作った。僕は、煙を焚くと米軍に見つかるからS少佐にここから逃げようと言ったが、S少佐は動かないんだ。海岸には砂の下にナマコがいっぱいいるし、そこらに食う物がいっぱいあったから。いったん僕は山へ退避したが戻った。
・あくる日の朝、米軍が海岸へ上陸してきた。弾を撃ち込んできたから山へ逃げ込んだ。そこでS少佐と別れた。米軍は追ってこなかった。
・敗残兵として山の中を逃げ回る。食糧を探して山道を歩いた。猿を捕ったり、タニシや貝を採った。竹でトカゲを叩いて捕まえ、煮て食べた。

●1945(昭和20)年9月15日 日本の敗戦を知る
●1945(昭和20)年10月 米軍憲兵隊へ出頭
・9月15日頃、お触れがまわったんですよ。負けたぞ、戦争は終わったって言う奴が来てね。そいつがテキトーに米軍へ出てくれって言ったんですよ。
・10月頃、町へ出るが、米軍憲兵隊へ出頭するのが怖い。殺されるかもしれんしね。部下の一人が、せっかく生き残ったのにって言ってゴネ出すんだ。
・残った部下と3人で公園の中に隠れて寝ていたら、自分たちのところへトラックの運転手が立ち小便しに来た。「隊長どの、運転手に気づかれました」。村人に取り囲まれてしまった。しかしその中にいた老人が歓待してくれて何事もなかった。村人の中に日本軍に恨みがある人がいなかった。恨みがある人がいたら殺られていたかもわからんね。
・銃を持った米軍憲兵がやってきて憲兵隊へ連行される。ここに収容されてた時、フィリピン人たちがやってきて、「我々は日本軍に殺されたから、代わりにアイツらを殺させてくれ」と憲兵に言っていたので、「代わりに殺されてたまるかい」と思った。

●モンテンルパの捕虜収容所へ
・日本軍の参謀なんて大抵生き残っとんですよ。収容所に入るとね、まだ参謀の奴が威張っとるんですよ。あーせいこーせい言うてね。だから僕は怒鳴りつけてやったんですよ。
・はじめ戦犯の調査が無かったんですよ。戦犯問題が起きて、捕虜の送還が一時停止になったんですよ。収容中、軍人になる前に民間人だった人を講師にして、戦後の日本をどうするかなんて、講演がありました。
●1945(昭和20)年12月21日 マニラから広島県大竹港へ復員
・米軍の大型トラックに乗せられてマニラ港へ。アメリカの大型トラックは武装兵が百人乗れるって言ってたな。日本のトヨタのトラックはたったの2トンですよ。勝てるわけないですよ。
・町を通るとね、(我々に向けて)フィリピン人が石を投げるんですよ。ジャパニーズ、ナントカカントカ言ってね。石が荷台の枠に当たってね。

最終階級
取材日 2011年2月27日
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