2021年05月04日

秋葉次男 さん

秋葉次男さん

生年月日 1913(大正2)年4月7日生
当時の本籍地 県

陸軍
所属部隊 第59師団独立歩兵第43大隊(衣4294草野大隊)
兵科 歩兵(軽機関銃)
戦地 山東省、朝鮮

●1943(昭和18)年4月8日 召集され入隊
・子供が3人いた。1才、2才、4才。
・4月2日召集。4月8日に入営を命じられ、準備も何もできないなかあわただしく出発。
・外地にいく前に予防接種(ごくらく注射と呼ばれていた)
・途中、列車は京都で止まり、そこで他の兵隊は家族が待っていたり、息抜きをする兵隊がいたが、私は一人だった。
・玄界灘は荒波で、同船していた若い従軍看護婦は青い顔をして船酔いになっていた。

●中国・山東省に
・山東省で討伐の任務。最初は第5中隊、次は第4中隊、最後は第2中隊とよく転属させられた。
・兵科は歩兵。三八式歩兵銃を担いでいただが、片目をうまくつぶることができなく、照準があわせられないので、十一年式軽機関銃を扱うことになった。
・とにかくこの銃は故障をしてたようで、目の前に敵が迫ってきたときも落ち着いて故障を治せるように、普段から上官より「性能をのべ!!」と銃の仕組みを何度となく頭に叩き込まれた。
・行軍では「皇協軍」という中国兵士が支援していた。これは、汪精衛(汪兆銘のことと思われる)の軍隊で、積極的でないにしろ、日本軍と協力関係にあった。
・実際の戦闘では役に立たず、掃討戦、現地調達等で活躍していたよう。
・武装解除後、皇協軍から泣きながら「私たちも連れて行ってくれ」と懇願された。
日本軍に協力していたということで、中国にいても同胞から報復される恐れがあるからだろう。分かっていたが、連れて行くことはできなかった。その後、どうなったかは分からない。
・軍服は殆ど着ていなかった。現地の中国の服を着ており(便衣兵)、行軍は酒を飲みながらでも上官からも注意はなかった。どうせ戦闘は週に1回ぐらいだから。
・八路軍がいる集落が分かると、士官の作戦会議が開かれ、正面、迂回等の部隊が振り分けられる。うちの上官はどうも迂回を好んだようで、いつも夜陰に乗じて、遠くから迂回して戦闘にのぞんだ。
・行軍は中隊が順番で隊列順番を組んでいた。あるとき、第5中隊が戦闘をしていることが分かったが、命令までは動かず「やってる、やってる」といった具合に見物していた。激しい戦闘で中隊長戦死の報告もあったが、まだ動かなかった。
・農民が40人から50人一組になって手榴弾を投げ込んでくる。2、3回繰り返してきて、その後に八路軍の正規軍が突っ込んできた。
・戦闘後に銃弾の補充を行うために消費した弾を申請するが、上官は多めに申請して、残りを売って、自分の懐に入れていた。
・逃亡を図る日本兵士もいた。自分で自分の足などを撃って、負傷して後方に帰ろうとするが、軍医が見ると、遠くから銃撃を受けたのと比べて穴が大きいので、ばれてしまう。軍医に自分で撃ったか? と聞かれて、「はい」と答えて自決を迫られる兵士もいた。自決しない場合は、戦死扱いにならない。自決すれば「名誉の戦死」扱いになる。

●1945(昭和20)年8月 敗戦
・終戦は朝鮮。その後、ソ連軍に武装解除。
・シベリアに18ヶ月抑留。
・持ち物をロシア兵に取られてしまう。
・向こうは数を数えるのが苦手なので、中には点呼中に動いて、混乱させてからかっている日本兵士もいた。
・抑留中の労働は、かなり熱がないと休ませてくれない。大変だった。

取材日 2009年7月11日
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posted by 戦場体験放映保存の会 at 16:09| 個人の体験談